極悪と戦えば極善となる

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苦悩を突き抜けて歓喜に至れ

【芸術はわれわれに立ちどまってはならないと命じているのだ】ーベートーベン


私は、ピアノを「人前で弾くのがつらい」と感じたことがあった。
人前でミスタッチなしで演奏するのは、かなり神経を使う。
緊張もする。


人の見ていないところで、自分の時間をさいて、何時間と一生懸命練習しても、本番は、あっという間に終わってしまう。


そのことを、知り合いの人に打ち明けた時、こうアドバイスをいただいた。


「絵でもなんでも、芸術家は、皆、苦しんでいる。でも苦しむからこそ、いい作品ができる。音楽家は、苦しんでこそ、人を感動させるような演奏ができる」


私は、ベートーベンのピアノ曲が大好きだが、彼の曲には、魂が揺さぶられるような感動がある。それはきっと、彼が苦労に苦労を重ねて、一曲一曲に魂を打ち込む思いで作曲したからだと思う。


【彼の音楽は、世界の民衆の心を感動で征服しつつ、勝利、勝利の行進を続けている】


【悔しくとも、悲しくとも、また、どんなに大変でも、前へ、前へと進むんだ。ベートーベンは、苦悩を突き抜けて歓喜へーと記しているが、苦悩を突き抜けた時には、勝利と歓喜の青空が広がっている。そう思えば、苦労もまた楽しいじゃないか】


               (2023・12・19付聖教新聞3面 池田先生の励ましより)



【トルコ行進曲】

Beethoven - The Famous Turkish March




ピアノソナタ【熱情】

Beethoven: "Appassionata" Piano Sonata No. 23, Op 57 - III. Allegro ma non troppo



宗門は、‘’「歓喜の歌」をドイツ語で歌うことは、「外道礼賛」‘’などと、時代錯誤の難癖をつけ、池田先生と学会を批判した。「第九」は、人類の融和と勝利の象徴として、人種や民族、宗教などの差異を超え、世界で歌われてきた。学会の諸行事で響き渡った「歓喜の歌」は、偏狭な宗門に対する、「人間のための宗教」の勝利宣言となったのである。
                    (2023・12・19日付聖教新聞3面より一部抜粋)






カラヤン ベートーヴェン《歓喜の歌》 1986

フォーエバーセンセイ

「あなたは音楽で人を励ましていきなさい」


池田先生が亡くなる一か月ほど前、先生が夢に出てきておっしゃった言葉だった。
何でそんな夢をみたんだろう。副役職になって、今、時間に少し余裕が出来たから、そんな夢をみたのかな?と思っていた。


それから一か月後、先生はお亡くなりになられた。
悲しみにくれていた私に、今、折伏している親友からの激励があった。


「いつまでも悲しむだけじゃ、亡くなった方は浮かばれんのよ。自分が朗らかに生きて、亡くなった人を‘’生かし続ける‘’んよ」


池田先生を‘’生かし続けること‘’、それは、私たち弟子が自分の使命をはたしていくことにこそあると思う。



座談会でピアノ演奏をすることになった。
曲は『フォーエバーセンセイ(今日も元気で)』


霊山で私たち弟子を見守ってくだっている池田先生へ届け!
とばかりに、力強く演奏しようと決意している。



今日も元気で



2018・10・7 マーチング イン オカヤマ 表町商店街パレード 創価ルネサンスバンガード SOKA Renaissance Vanguard

心配しなくてもいいですよ

この信心というものは、時間をかけなきゃいけない。
すぐに良くなろうたって無理なんです。
なんだかんだ、なんたかんだといっているうちに、
だんだんよくなっちゃうんだ。


だから、焦らなくてもね、この御本尊持った以上は、必ず良くなるんだから。
心配しなくてもいいですよ。


そりぁあ、苦しい時もあるさ。
泣きたいようなこともあるさ。


あるけれどもね、この御本尊をいただいているうちは、
必ず、明朗な、朗らかな人生が、あらわれる。


だから、御本尊を信じる以外にないんです。


    (1957・2・8 豊島公会堂於 戸田先生 寂日房御書講義より一部抜粋)