極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

心配しなくてもいいですよ

この信心というものは、時間をかけなきゃいけない。
すぐに良くなろうたって無理なんです。
なんだかんだ、なんたかんだといっているうちに、
だんだんよくなっちゃうんだ。


だから、焦らなくてもね、この御本尊持った以上は、必ず良くなるんだから。
心配しなくてもいいですよ。


そりぁあ、苦しい時もあるさ。
泣きたいようなこともあるさ。


あるけれどもね、この御本尊をいただいているうちは、
必ず、明朗な、朗らかな人生が、あらわれる。


だから、御本尊を信じる以外にないんです。


    (1957・2・8 豊島公会堂於 戸田先生 寂日房御書講義より一部抜粋)

転重軽受法門

さあ、罰という問題ですがね。これは仏様が罰をあたえるというふうにとるのは大間違い。ね、罰というのは、自分の持っている運命が出るということです。罰をあたえるとかなんかいうことをよくいうておりますが、そんなもんじゃないんです。罰というのは宿業のことだ。自分の身に持っているものが出るんです。


罰とも宿業ともいうんです。そんなものは、人にあてられてたまるものかい。なんぼ仏様だって罰なんてあたえるわけがないよ。そりゃ、出るだけのことです。御本尊を持っていると軽く出るんです。山を登ったものは必ず降りねばならぬと大聖人はおっしゃっています。過去世に持ってきた宿業は必ず出さねばならんとおっしゃっている。ですから、罰というものはわが身にあるものが出るんです。それは軽く出るのがこの仏法なんです。


ですから、おそらくあなたが受けた運命というものは、今は、苦しいかもしれませんが、私は軽いもんだと思うております。もしそれが、この御本尊を受けなかったら、重く出るんじゃなかったかと私は思うんです。(中略)そこだ。これを転重軽受法門という。そういう法門の理がありまして、それでも今のご質問の方は、軽く受けているんじゃないかと私は思うのです。


軽く受けさせてやったのにね、まだ文句言ってる(笑)
それは、罪というものはそれで消えてるはずなんです。
軽く受けているんですよ。私はそう断ずるがね(拍手)


ですからそれは、変毒為薬と申しましてね、毒を変じて薬とする、そのことがあなたの信心と、あなたの誠意によって、必ず軽く、またそしてそのことが、あなたの一生の生活に徳になってくるはずです。変わってこなけりゃならん。今はあなたは苦しむでしょう。嘆くでしょう。辛いでしょう。そのことが幸せに変わってこなけりゃ本当の信心じゃありませんぞ。悩み苦しんで、そのことが幸せに変わってこなきゃいけない。それが御本尊様の功徳です。


                   (1957年 戸田先生の御指導より一部抜粋)

池田大作の名言 阿部日顕の名言Ⅱ

【自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。人を幸福にした分、自分も幸福になる】


【挨拶は心のドアを開くノックである】


【英知を磨くは何のため 君よそれを忘れるな】


【笑顔は幸福の結果というよりも、むしろ幸福の原因といえよう】
                                -池田大作




「なかなか御本尊を信ずることが出来なかったことだ。今でも、本当に信ずることが出来ないでいる」


「あのねーミーチャンやハーちゃんにも分かるようによ、ペコペコよ、頭下げて説いてたらよ、本当の法なんて説けやしないんだ」



「『遊戯雑談のみして明かし暮らさんは法師の皮を著たる畜生なり』と大聖人様の御書に説かれておるけれども、大聖人様に『畜生だ!』といわれてんだけれども、まーそのへんはどうもピンとこない」
                               -阿部日顕