極悪と戦えば極善となる

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波田地克利と宮川雄法(日護)

ミニ山崎正友・波田地克利と宮川雄法(現・日護)について


最近、創価新報でもよく取り上げられるようになったが、波田地克利は元・本部職員で教宣部の活動や職務を通じての人脈を悪用、学会内で厳禁とされている「組織内組織」をつくり、組織を攪乱するなど職員の立場を悪用して諭旨退職処分となり、2013年12月には会員除名処分となった。


数年前から仲間と一緒に「宿坊の掲示板」で「学会の執行部がおかしくなった」「新人間革命はゴーストライターが書いている」「天魔が富士宮から信濃町にうつった」等、デマの情報で執行部へ誹謗中傷を繰り返し、「本物の弟子である自分たちが学会執行部を倒さなければいけない」と、自分たちこそ真の池田門下であると喧伝。


その波田地が、あきれたことに最近、日蓮正宗に出入りしているらしい。
教宣活動で、日顕を糾弾していた者がなぜそんな無節操なことが出来るのか。
かつての山崎正友のように宗門を牛耳れるとでも思っているのだろうか。



その波田地一派と元職員3人組にすり寄っていったのが、元・日蓮正宗改革同盟の宮川雄法(現・日護)。宮川は学会の会館寺院で金銭不祥事をおこし解任になったが、それを不服として寺に居座ったため寺院明け渡しを求められ提訴されて、敗訴。


一介の坊主に身をやつしていたが、日興門流の古刹・保田妙本寺に目をつけ近づいて行き、2016年、突如「能化就任」を宣言し、「雄法」から「日護」という日号に改名。


ところが昨年の2018年9月、法華講員から


『「日護」なる日号は、保田妙本寺でもらい受けたものなのか』
『保田妙本寺の能化ならば教学的な質問に答えよ』


と追及を受けると


『妙本寺の能化という表現は正しくない』


といとも簡単に前言を翻した。



宮川は日蓮正宗改革同盟時代、あれほど日顕を糾弾していたにもかかわらず、


「若気の至り」「優れた御人格を傷つけました事は、再び、お会いする機会があれば、心よりお詫びしたいと思います」


と自身のFacebookに謝罪を記載。



生前の山崎正友が日顕のことを「相承なし」として


「ゼニゲバ」「独裁者」「まことに信仰心のうすい功利主義の権化」


等々、週刊誌で散々こき下ろしていたのに、日顕に利用価値があると思うとコロッと前言を翻し手紙で、


「御法主上人猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世のご僧侶方は感謝されるでしょう」「人格高潔な方ほど、苦痛を味わ(ママ)されるものです」


とゴマをすっていたのを思いおこす。


旗色が変われば何の羞恥心もなく前言を翻す変わり身の早さ、
宮川も山崎と同類の人間だとわかる。



さらに宮川の不可解な行動が、日顕に謝罪後も『池田先生の一番弟子』と吹聴しているところ。信心がない宮川は、自らを権威づけるため利用できるものだったら、日顕でも池田先生でも、どちらでもいいのである。



梵我一如さんのご質問への返答Ⅱ

戒壇本尊については、教学試験の勉強で


『熱原の三烈士の殉教をみて、時を感じられた大聖人は弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を建立されました』


と習いましたし、ずっとそれを信じていましたから後世の造立と聞いてとても複雑な気持ちになりましたが、鎌倉時代の遠い昔の出来事が、後世に誤って伝承されてしまうこともあるかもしれない、とも思いました。


御書についても、『「百六箇抄」「本因妙抄」は写本のみで原本が残っていないから偽書である』とか、いろんな説がネットでも飛び交っていますが、タイムスリップでもしない限り、その真偽は確かめようがないのかと。私個人は、相伝書と呼ばれる此の二つの書は偽書ではないと思っていますが、情報が氾濫している昨今、取捨選択が難しいところです。


戸田先生は、戒壇の大御本尊のことを「究極中の究極」と当時は信じていたと思いますよ。


ただ、堀日亨上人はこのこと(戒壇本尊の真実)を知っていたかもしれない以下の文献も残っています。


『然れば当時何事か宗祖の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、先師が曾て直ちに此の文(聖人御難事の「余は二十七年なり」の文)を以て戒壇本尊顕彰の依文を為れたやうだが、直接の文献は無いやうである』
                    
                     (堀日亨著「熱原法難史」より)

梵我一如さんのご質問への返答

【戸田会長は、本当は本門戒壇の大御本尊様も他の御本尊様もすべて一緒だと知っていたのに、日蓮正宗に合わせる為に、本門戒壇の大御本尊様だけが、本門の本尊だと会員に言っていたのか】



戒壇の大御本尊について触れた最古の文献は、大聖人滅後280年の永禄四年、


『久遠寺の板本尊、今、大石寺にあり。大聖御存日の時の造立なり』
                    (保田妙本寺・日我 観心本尊抄抜書)


それ以前、戒壇の大御本尊に触れた文献はなく、御書にも戒壇本尊に対する記述が一切出てこないこと、戒壇本尊と大聖人が弘安三年五月九日にあらわされた日禅授与の本尊と大きさ、筆跡ともに一致していること、日興跡条条事の「弘安二年大御本尊」は、同年日興上人が授与された万年救護本尊(保田妙法寺蔵)である可能性が高い等々、最近の研究では
戒壇の大御本尊は、大聖人の御真筆(日禅授与本尊)の模写であるという見解が、ほぼ明らかになっています。


戸田先生は、日蓮正宗に合わせる為に‘’本門戒壇の大御本尊だけが、本門の本尊‘’と会員にいっていたわけではなく、「究極中の究極、本懐中の本懐」(文段集P452)と戒壇本尊を位置づけられている日寛上人の教学を用いられていたからだと思います。


【教学は日寛上人の時代にかえれって言ったのも、(戸田先生は)本当は日寛上人の教学もオカシナところがある事を知っていたのに、わざわざ何故そんな事をいったんだろう】



富士門流の有意性を示すため後世に定着していったものと思われる「大御本尊根本信仰」
の教義を日寛上人もそのまま順守され、その日寛教学を用いていた当時は「オカシイところがある」とは、思われなかったのではないでしょうか。


                              (続きます)