極悪と戦えば極善となる

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200年先まで手を打っている

「先生亡き後はどうしたらいいのでしょうか?」


ある会員の方が池田先生がご存命の時に、このような質問したことがあるそうである。
側に居合わせた幹部の人たちは‘’失礼じゃないか‘’とばかりあわてた。


「いいんだよ」


と先生は言われ、


「大丈夫。100年、200年先まで手を打っているから大丈夫だよ」


と答えられたそうである。


何年も前に会合で聞いたエピソードであるが、今、思えば大事な質問だったと思う。
勇気を出して質問してくださった方には感謝である。

亡き母の遺言

「自分が副役職になった時、正役職の人をしっかり守っていきなさい」


母は生前、私によく言い聞かせていた。


ずっと祈っていた後輩が育ち、副役職になった今、
少し時間に余裕ができて、より一人一人の部員さんと向き合えるようになった。
どんな立場になろうとも、正役職の人を支え、創価学会をしっかり守っていこうと思う。


母は、「副役職になった時、自分の本当の信心が試される」とも語っていた。


【(戸田)先生は私に「どんな立場にあっても、学会を守れ」と一言おっしゃた。
師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に秘めながら、いついかなる時も「その通りに」やってきました】


【会長を勇退して二十年(当時)。名誉会長なのだから、本来ならば、責任はない立場なのかもしれない。しかし、役職は仮のものだ。信心は一生涯、自分自身の「心」の問題です。】


【「どんな立場にあっても、学会を守れ」。師匠の一言を、私は「その通りに」全力で実行してきたつもりです。「その通りに」実行するから「師弟不二」なのです。これが法華経です。これが「如説修行」です」】
         (法華経の智慧 第6巻 P324~「如」「去」は師弟不二の信心より)

生死ともに仏なり

私の父は、儀典部で友人葬の導師をしていた。
その時、父がいつも読んでいた、弔辞での御書の一節が心に刻みついている。


「い(生)きておわしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり」
                     (上野殿御家尼御返事 新・P1832)


昨日、25日に池田先生の学会葬の同中に参加させていただいた。
先生は、お亡くなりになられたが、私の「己心」の中で確かに生き続けている。


【妙法の説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとる】
                     (2023年11月25日付聖教新聞2面)


今朝の新聞配達のとき、美しい月が出ていた。
先生に見守られているように感じた。


「よくやってくれているな。嬉しいよ」


と語りかけてくださっているようだった。



お月さまの願い 11・3創価文化の日記念