極悪と戦えば極善となる

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歪んだ眼にはすべて歪んで映る

一時期は華々しく活躍していても、退転して、学会に反旗を翻す人もいました。そうした人をつぶさにみていくと、決まって、わがままであり、名聞名利、独善、虚栄心が強いなどの共通項があります。


結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です。


私は、ずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。
弟子を名乗る者のなかにも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから早く遠ざけたほうがよい』と言ってくる人もいました。それでも私は寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気づよく、
対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。


なぜかー騙されても、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎつくすのが、師匠であるからです。それが、私の心です。


しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならば、それは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに躊躇があってはなりません。


人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃するーそれが、三十数年間にわたる信仰生活の実感です。だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。


私どもは、広宣流布のため、世界の平和と人びとの幸福のために、献身しぬいてきました。しかし、悪僧や、それにたぶらかれた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。


大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、悪人がどう見ていたかを示され、『或は悪人はすみ(炭)とみる、或は悪人ははい(灰)とみる、或は悪人はかたき(敵)とみる』(御書全P1303)と言われている。


歪んだ眼には、すべて歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映しだすことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です。


                 (新・人間革命30巻下 勝ち鬨の章より一部抜粋)