【念仏は無間地獄の業因なり、法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨てて法華経を持ち、生死を離れて菩提を得べきこと】(御書新・P748) (念仏は無間地獄(間断なき苦しみ)の業因である。法華経は成仏の近道である。早く浄土宗を捨てて、生死の苦しみから離れて悟りを得なさい) 中国浄土宗の祖である善導... 続きをみる
2022年11月のブログ記事
-
-
-
大正十年当時の日蓮正宗僧俗は、教義を異にする宗派である「本門宗」「本門法華宗」「顕本宗」などの人々と一緒に太鼓を打ち、共に唱題しながら提灯行列をしていのだ。日蓮正宗は総勢五百名であるから、他のほぼ四千五百名が他宗派であった。 さて、ここまで『大日蓮』に載った大正十年の日蓮大聖人御生誕七百年の模様を... 続きをみる
-
日顕の父、日開が法主になる前、編集責任者をしていた、明治時代の宗門機関紙「百蓮華」には、身延の宣伝や達磨大師入りの広告で「木魚」「般若心経」「仏像」を毎号のように宣伝していた。 他にも「祈祷や呪術・護符」などの事を書いた本を宗門の機関紙に載せて宣伝し金をもらっていたり、なんと「織物にした日蓮上人の... 続きをみる
-
「広宣流布をなすなのは、学会以外にない。これに背けば五逆罪になる。学会をはなれて幸せなものはいない。功徳のあるわけがない。戸田のやつ、すこしのぼせてると言うものがいれば、言うものはいえ」(昭和29年2月27日 本部幹部会 豊島公会堂) 「和合僧を破る、心の和合を破壊し、仏の道を破壊することである。... 続きをみる
-
-
-
本覚思想とは、「衆生は本来、仏なのだから、修行などせずともいい、欲望、現実をそのまま肯定する」というもの。 大聖人御在世の天台宗の連中は、法華経の「開会」の法門を曲解、 ‘’念仏も真言も禅もすべて法華経であり、そう信じるのが修行である‘’ と主張した。 そのような本覚思想を大聖人は厳しく破折された... 続きをみる
-
戸田先生を罵り、後脚で砂をかけるように学会を去った元幹部が、ある時、別人のように面変わりして現れた。 生気を失い、全く人が変わった悪相に皆が驚いた。 「よく見ておきなさい。反逆者は、不思議と、その堕地獄の姿を最後に見せにくるものなのだ」 恩師の厳然とした、あの声が、今もって、私たち真の弟子の生命か... 続きをみる
-
私は、人前でピアノ演奏する機会が多く「自分が楽しんで弾く」ことをこころがけていたのだが、練習していたある日,ふと「人前でピアノを弾くのがつらい」と思う瞬間があった。 そのことを率直に知人に打ち明けたると、 「芸術家っていうのは、苦しむからこそ良い作品ができたり、人を感動させれるような演奏ができるの... 続きをみる
-
-
「私と初代会長牧口先生をともに調べた特高刑事の一人が、東京の有楽町駅で電車を待っていたとき、ひょいと頭を出して電車にぶつかり、目、鼻、口から血を吐き出し、首が抜けて死にかかった。すごい頭破作七分の姿を、はっきり覚えている」 (戸田城聖全集第4巻より) この刑事は、終戦後、「私が間違っていました... 続きをみる
-
-
「週刊新潮」(11月24日号)の虚偽報道に対して、創価学会は24日、発行元の新潮社などに「抗議書」を送付した。 記事には、学会の財務について、「額はおおむね収入の一割が目安」などと記載しているが、もとより、学会が会員に対して、そのような指導をしたことは一切なく、全くの事実無根である。 こうした記事... 続きをみる
-
「間違いない!」のフレーズでエンタの神様でブレイクした長井秀和。 2012年に創価学会を脱会し、現在SNSなどで盛んに学会に対して誹謗中傷を重ねている。彼は、度重なる女性スキャンダルをおこし、芸能界にいられなくなる。現在は「すこやかな共生社会をつくる会」なる政治団体で、西東京市議会選挙への出馬予定... 続きをみる
-
成田雄伴氏 私が本山にいたころ、日顕の孫の阿部正教が中学の夏休みに、1日2時間唱題 をあげていた時があった。 橋元男子部長 あの正教にもそんな時期があったんだ。 成田雄伴氏 父親の阿部信彰が、それを聞いて上機嫌になって、日顕に報告した。ところが 日顕は喜ぶかと思いきや、烈火... 続きをみる
-
小笠原慈聞は、戦時中、創価教育学会が弾圧を受ける原因となった人物である。 牧口先生を死に至らしめた原因となった小笠原を断じて許すわけにはいかず、創価学会青年部は小笠原が唱えていた邪義「神本仏迹論」を破折、牧口先生の墓前で謝らせた。 宗門は、その小笠原を僧籍復帰させていたことを、出家ぐるみで隠ぺいし... 続きをみる
-
現在、法主絶対論を唱えている宗門だが、日顕は生前、以下のような発言をしている。 全国教師講習会での日顕の発言 「まー、私が南無阿弥陀仏を一緒に唱えようって言ったら皆さんどうする?絶対、用いない。そんなことは、皆さん方がね。うん、そりゃそうだ。うん、それじゃーそれで放逐するかどうか。まー、南無阿弥陀... 続きをみる
-
1925年(大正14年)、58世・日柱が客殿で勤行を行っていた際、ピストルのような爆発音や投石により脅される事件が多発した。 同年11月20日、宗会で日柱に対して不信任決議が出され、それが可決、辞任勧告書も出され、日柱は同24日、辞任に追い込まれた。 この事件を知った大石寺の檀家総代や東京の信徒は... 続きをみる
-
戦時中、軍部政府が、思想統制のために、日蓮宗各派の各派の合同を打ち出した時にも、正宗僧侶の中には、これに従おうとする僧侶もいた。 そのなかで、牧口常三郎は、宗祖大聖人、日興上人の正法正義を守り抜くために、日蓮正宗は単独で認可を取るべきであると主張した。そして、牧口の奔走の結果、一九四一年(昭和一六... 続きをみる
-
日蓮正宗法主による謗法は、さらに続いた。 一九三一年(昭和六年)十月の大聖人の第六百五十回遠忌を前にして、日蓮宗では、大聖人の「大師」号となった「立正」の文字を認めた天皇の勅額を、身延山久遠寺に下賜してもらおうとの計画を進めていった。 日蓮宗(身延派)は、天皇の「立正」の勅額を得て、自宗派が日蓮宗... 続きをみる
-
-
伸一は、僧侶が、なぜ、このように、いともたやすく堕落し、悪に染まっていくかを考えさせるを得なかった。 ー戦時中、宗門が、軍部政府の弾圧を恐れて神札を祭ったことは、よく知られている。 しかし、実はそれ以前から、教義の根本にかかわる「謗法厳戒」の教えを、破り続けたのである。 大正以降の主だった事例でも... 続きをみる
-
ある時、伸一は戸田に言った。 「先生は、これほどの苦難に遭われながら、いつも堂々としていらっしゃいます。ほかの人ならば、おそらく自殺をしているにちがいありません。先生のお心の強さに、私は、感服いたします」 「もし、ぼくが、人より多少は強い精神の持ち主のように見えるとしたら、それは、戦争中に牢獄の中... 続きをみる
-
昭和19年、戸田先生は獄中で一日一万遍の唱題と、何度宅下げしてももどってくる本「日蓮宗聖典」返り点も仮名もふってない法華経を読み切る挑戦を開始した。獄中に御本尊はもちろん無く、数珠は牛乳びんの蓋で作った。 独房生活は過酷を極めていた。不衛生で劣悪な環境、栄養も全然たりてなかった。 堂々とした体格だ... 続きをみる
-
昭和18年、七月六日の朝、地方折伏のために伊豆の下田にいた牧口先生は特高刑事2名に下田署に連れていかれ取り調べを受け、治安維持法違反ならびに不敬罪で逮捕された。同日、戸田先生も逮捕され、その他の幹部20名も次々に逮捕された。 宗門は牧口先生の逮捕後、日蓮正宗宗門は坊主2名を牧口先生宅を訪問させて、... 続きをみる
-
宗門機関紙「慧妙」五月一日付のデマ記事↓ 「昭和十八年六月。牧口・戸田両氏は、本山で日恭上人・日亨上人の立ち合いのもと、神札をひとまず受けるように指導された。学会はこれを受け、理事長だった戸田氏の名前で、神札を粗末に扱わないように指導している」 学会が神札をうけるように指導していたら、治安維持法違... 続きをみる
-
-