極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

相変わらず戒壇本尊にこだわる某ブロガー

創価を卒業(退転)し法華講員となっているのに幸せになりきれず今だに創価に粘着し続けている創価ダメ出し系ブロガーさんが、教義改正で創価学会が戒壇本尊を受持の対象から外したことに対し「方便といえば聞こえはよいですが要はこの日寛さんは他宗より大石寺を優位にするために嘘をいっている部分があるというわけです」などとおかしなことを述べてしまいました。学会は日寛上人を嘘つき呼ばわりなどしていませんが。


「嘘も方便」とのことわざがありますが、「嘘」と「方便」はイコールではありません


『嘘』=虚偽、悪意のあるつくり話


『方便』=方便の語源は、仏教用語で仏が説いた爾前経など衆生を導くために使われた仮に説いた「方便」からきていて、「近づく、到達するため手立て」という意味があります。法華経には「化城宝処の喩え」が説かれています。


以下、須田晴夫氏の見解


【日寛がこのように戒壇本尊を教義の根本に置いて強調したのは、第十三世日院当時からほぼ百六十年以上にわたって大石寺に定着していた戒壇本尊宗祖直造の信仰に従ったものであり、決して日寛一人の判断ではない】


【しかし今日、戒壇本尊が後世の造立によるものであることがほぼ明らかにされた以上、戒壇本尊を教義の根本とするという日寛の主張を今後用いることは困難となろう】



【法主の書写本尊について戒壇本尊を書写したものであるという見解も採用することはできない。この見解は、日興以来、書写本尊にしたためられてきた「書写之」の「之」を戒壇本尊と理解するものだが、「書写之」の「之」とは書写した当の本尊それ自体と解釈すべきである。漢文の「之」とは書写した当の本尊それ自体と解すべきである。漢文の「之」の文字は「これ」と読む場合、「直接にその事物や人などをさす代名詞」(新・漢和辞典)で、例えば日蓮が「顕仏未来記」の冒頭に「沙門 日蓮 之を勘う」と記した場合、「之」は当の「顕仏未来記」そのものを指すことはいうまでもない。「沙門である日蓮が、この顕仏未来記を執筆した」という意味である(中略)書写本尊は戒壇本尊を書写したものではないので、書写本尊は戒壇本尊の「分身」であるなどという従来よく言われていた説明も、その根拠が失われており、もはや成立しない】



【日寛教学には戒壇本尊を根本視するなどの教団人としての限界や時代的制約はあるが、その教学は基本的には日蓮・日興からの富士門流に継承されてきた日蓮仏法の正当教義を体系化したものであり、それ自体としては貴重な思想的遺産といってよい。そこで、日寛教学に対する態度としては、今日において継承できないものは除いた上で、全体を思想的遺産と受け止め、今日および未来に対応する教義体系の基礎として用いながら発展的に止揚していく
ことが必要であろう。後に見るように、創価学会における価値論、生命論などの思想的営みは日蓮仏法を現代的に展開しようとする試しみとして理解することができよう】