御本尊七箇相承
日興門流の書写本尊の相貌が「御本尊七箇相承」の通りになっていないことをもって、
『御本尊七箇相承』は「後世の偽作」という説もあるが、
現代を生きる我々の見解はさまざまに違うだろう。
日興上人、日目上人は、七箇相承の通りに御本尊を書写していないのである。
日興上人書写の御本尊には「南無妙法蓮華経」と「日蓮」が直線に並ばないものがある。
また日目上人書写の御本尊ものの中には、「南無妙法蓮華経 日蓮聖人」となって「在御判」と無いものもある。
冒頭に記した通り、日興上人や日目上人が七箇相承の通りに御本尊を書写していないことをもって『御本尊七箇相承』が後世の偽作なのかどうかは、真偽は不明であるが、
以下は「僧俗全てが仏である」という御文なのに
「法主一人」のようにつくろって日蓮正宗がよく使う切り文
【代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり】(御本尊七箇之相承)
しかし、その前にはこうある。
【七、日蓮と御判を置き給ふ事如何。師の曰く。首題も釈迦多宝も上行無辺行等も(略)十羅刹女も・天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之について受持法華本門の四部の衆を悉く化身と思ふ可きか】(富士宗学要集 第一巻 P32)
(御本尊に「日蓮」と認めるのはなぜか。師はいった、首題の南無妙法蓮華経も、釈迦や多宝如来、上行、無辺行、十羅刹女と書くのも、この十界すべてが日蓮(仏界)であるという意味からである。であるから、末法にこの法華本門の南無妙法蓮華経を受持している僧侶、
尼僧、男信徒、女信徒の四部の衆すべてを、悉く日蓮の化身と思わなくてはならない。)
(参考文献 御書が糾す大石寺教学の邪義)
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