極悪と戦えば極善となる

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大日 阿弥陀は架空の仏

【大日如来の父母と、生ぜし処と、死せし所を、委しく沙汰し問うべし。一句一偈も大日の父母なし、説所なし、有名無実の大日如来なり】(諸宗問答抄 御書新・P774)


(大日如来の両親と、生まれたところと、亡くなったところを詳しくとりあげて、問うてみるべきである。一句一偈も説かれていない。名前ばかりで実体がともなわない大日如来である)


【念仏は、これ浄土宗の用いるところの義なり。これまた権教の中の権教なり。譬えば、夢の中の夢のごとし。有名無実にして、その実なきなり。一切衆生願って所詮なし。しかれば、云うところの仏も有為無常の阿弥陀仏なり。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば、本朝の根本大師の御釈に云わく「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏」と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば、大いにいましめ、捨ておかれ候なり(同P775)


(念仏は、浄土宗の用いるところの教えである。これはまた、仮の教えの中の仮の教えである。例えば、夢の中の夢のようなものである。名前ばかりで実体がともなわないのである。一切衆生が阿弥陀仏に往生を願ったとしても、結局のところその願いは叶わないのである。だから浄土宗が説いている仏も、名前ばかりで実体がともなわない阿弥陀仏なのである。伝教大師の釈にいわく「無常の仮の仏(釈尊が衆生を導くために説いた仮の教え、釈尊が亡くなれば滅する)は夢の中の幻影であり、無作の三身(生命本来の三身をそなえた仏の境涯)とは覚前の実仏」と訳して、阿弥陀仏などの、無常(いずれは滅する)の仏を、おおいに誡め、捨て置かれたのである)


以下法華経の智慧より一部抜粋


斉藤 「生命には、厳然と仏界がある。しかし、仏界は九界を離れてあらわれないのです。
    伝教大師が言った通り、『有為の報仏は夢中の権化、無作の三身は覚前の実仏』
    です」
    


須田 「有為とは無作ではない、つくろっといるという意味ですね。報仏は報身仏。修行の
    報いとしての仏身です。「無作の三身」以外の、つくろった「色相荘厳の仏」とは
    夢の中の仮の仏果であるー」


遠藤 「「無作の三身」だけが実仏である。「覚前」の実仏は、歴劫修行の結果、悟りを開    
    いて成仏したのではなく、もともと本有常住の仏なのです」


名誉会長 「立派そうな恰好をしている仏は「夢の中」の存在だというのです。実在しない
     のです。本当は、ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立た
     せていくのが、唯一、実在の仏なのです。「人間」以外に仏はないのです。
     「人間以上」の仏はにせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく
     どこまでも人間として、「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が
     「仏」なのです」


     「「日蓮と同意ならば」と大聖人が仰せのように、広宣流布を目指して進む
      我が同志こそ、現代における「仏」です。それ以外に「仏」はない。ゆえに
      学会員を己のために利用する仏罰は限りなく大きい」