極悪と戦えば極善となる

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法華経に傷をつけてはならない

【一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うぺからず。されば、同じくはなげきたるけしきなくて、この状にかきたるがごとく、すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし】(四条金吾殿御返事 新1583・全1163)


(一生は夢の上の出来事のようにはかなく、明日のことさえ分からないものである。たとえ、どんな乞食になったとしても、法華経に傷をつけてはならない。それゆえ、同じことならば、嘆いた様子を見せないで、このあなたの誓状に書かれたように、少しもへらわずに振舞っていきなさい)


永遠から見れば、一生は夢のようにはかないもの。名誉や地位、財産に執着して右往左往しても、それらはやがて幻のように消え去っていきます。では、この一生において何が一番大切なのかー「法華経に傷をつけてはならない」との御金言は、私たちが宿命の烈風に直面し、岐路に立たされた時に、究極の羅針盤となって輝きを放ちます。本抄は、「頼基陳状」に添えて四条金吾に送られたお手紙です。池田先生はかつて、この御文を「私が胸に秘めている一節」と述べ、次のように講義しています。


「境遇に負けること、自分自身に負けることが、『法華経に傷をつける』ことになるのです。世間の評判を恐れて『臆病』に負け、毀誉褒貶に惑わされて『傲慢』に陥り、何よりも一番大切な『信心』を見失ってしまうことが、結果として『法』を下げることに通じていく」


「信仰とは、どこまでも、今世の毀誉褒貶を夢と見おろしながら、永遠の生命のうえから崩れざる宇宙大の境涯を自己自身に開いていくためのものです。屹立した『精神の王者』をつくるのが、真の宗教の使命です」
               (12月11日付け聖教新聞 5面より一部抜粋)