極悪と戦えば極善となる

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諂曲なる五老僧ー日向

【彼の民部阿闍梨(日向のこと)、世間の欲心深くして、へつらい諂曲したる僧、聖人の御法門立つるまでは思い寄らず大いに破らんずる仁よと、この二・三年見つめて候いて、さりながら折々は、法門説法の曲がりれることを謂れ無き由を申し候いつれども、あえて用いず候】(新・P2170 原殿御返事より)


五老僧のうちの一人、日向は才子肌で、弁説も優れ、かなり優秀であったようだ。「御講聞書」(新・P1120)(おんこうききがき・おこうききがき)は、大聖人の言葉を日向が記録したものとされている。今の身延山久遠寺は日向の流れをくむ。


日向は、自分の才智におぼれてしまったのだろう。教義に厳格だった日興上人の善導を全く聞かなくなってしまった。才智におぼれて信心がおかしくなったという点では、三位房と共通しているのかもしれない。身延の地頭であった波木井実長(法名日円)が次々に謗法を犯していくが、日向は身延の学頭という立場にありながら、それをみて善導もせず容認、それどころかむしろ世俗や時流への迎合し、教義逸脱への方向へと傾いていく。


〈波木井実長が犯した謗法の数々〉
・釈迦の像を造立して本尊とした
・大聖人が禁止されていた神社に参詣
・念仏の石塔を建てる
・領内に念仏の道場を建てる
・念仏の僧侶に供養する


日興上人は、波木井実長を度々、諫めたが「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」(新・P2171)「私は民部阿闍梨殿(日向)を師匠にしたのじゃ」と言って聞く耳をもとうとしなかった。大聖人が御入滅されて七年で、身延は謗法の地となってしまった。「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」の大聖人の御遺誡通り、意を決した日興上人は、身延を離山されたのである。


【身延山を罷り出で候こと、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わんことこそ詮にて候え。さりとも思い奉るに、御弟子ことごとく師敵対せられ候いぬ。日興一人、本師の正義を存して本懐を遂げ奉り候べきに仁に相当たって覚え候えば、本意忘るることなくことなく候】
(新・P2171 原殿御返事)