教学部長時代から折伏を行じようとしなかった日顕Ⅱ
(平安寺の)落慶入仏式の席上、日達法主は「慶讃文」のなかで次のように述べている。
「当地には数多の寺院甍を並べ軒を連ぬと雖も権迹浅近の諸宗にして我が邦第一の魔境とも謂う可き所なればかかる地に於て将来の竜象をして邪魔を破し研磨し鍛えせしめんが為なり」
誤った教えの宗派の寺院が連なる「魔境」ともいうべき京都で、将来の宗門の大人材に、破邪顕正の戦いを起こさせ、磨き上げていくために、この寺を建立したというのである。
この日、伸一は、あいさつのなかで、仏法者としての在り方に言及し、次のように結論した。
「仏法を持った私どもは、周囲の人から『なるほど立派な人である。これほどの人が信心しているならば、私も信心しよう』と言われるような姿でなければならないと思うのであります」
御書に「教主釈尊の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(全・P1174)と仰せのように、仏法とは、人間の生き方の究極を説いたものである。したがって、人として、いかなる行為、振る舞いをなすかが、仏法者として最も大切な問題となる。
平安寺の阿部信雄によって、京都の広宣流布は進むと信じて、会員たちは苦しい生活のなかでも、寺への供養を続けた。だが、何年たっても、日蓮正宗に改宗する寺など、ただの一ヵ寺もなかった。そもそも阿部は、折伏を行じようとさえしなかったのであろう。
では、彼がしたことは、なんであったか。
ーやがて、高級料亭に出入りし、時には芸妓を呼んで宴席をもつ阿部の姿が、目撃されたのである。
(新・人間革命7巻P375~操舵の章より一部抜粋)
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