極悪と戦えば極善となる

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貫首が大石寺を捨てて廃寺の危機に

大石寺十七世貫首・日精は大檀那の敬大院と仲違いし、大石寺を捨てて江戸・下谷の常在寺に退去した。その後、大石寺は貫首不在のまま三年の月日が流れた。


日精から付属を受けた十九世・日舜(十八世日瑛は早々に死去)の伝記には、


【精師(日精)と大檀那(敬大院)が仲違いして、精師が富士を退去して江戸・常在寺に移住してしまった。大石寺は住職不在となり幕府の朱印改めを受けれないので、廃絶の危機に陥ったので、敬大院によって選ばれ、大石寺に貫首として入山した。その後、精師と敬大院が和解したため、精師から相承を受けて法を継いだ】(富士宗学要集第五巻)


以下は河合一氏著 「暗黒の富士宗門史」より一部抜粋


『この記述と富士年表を照合してみると、寛永十五年から三年間も法主がいなかったのです。また、日舜法主は寛永十八年に大石寺に入ってから、正保二年までの約四年間、付属を受けないで法主の座に座っていた借りの法主だったのです。つまり相承など受けないでも法主が務まった、ということになります』


『富士門流を邪義によって濁らせた上、個人の感情で法主の座を放棄し、平気で大石寺を捨てて廃絶の危機を招くという大謗法で無責任な法主や、付属のない形式的な法主など、信心のうえからはとても考えられないような破法の法主や失格法主が宗門には何人も存在していたのです』