極悪と戦えば極善となる

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謗法呵責は成仏への直道

以下、河合教学師範の指導
                            
日顕を呵責することについて「そんなにひどい言い方をしなくてもいいのに」とか「悪口ばかり言っているのは嫌だ」などと思う人がいたら、それは本質を見誤っています。


日蓮大聖人は、謗法を責める時には「鬼畜なんどと下しても其の過あらんや」(御書全P1282)と仰せであり、邪義によって人々を不幸にする悪侶に対しては、「鬼畜である」と
責めてもいいすぎではない、と教えられているのです。そうでなければ、邪義に誑かされた衆生を救うことは出来ず、無慈悲になるからです。


魔との戦いを「なにもそこまでやらなくても」などと思うのは、魔に妥協する心が働いたからで、それは「己心の魔」に負けたのです。そのことから、学会不信となり、信心が弱くなるので功徳が受けられなくなって、御本尊不信へ進んでいき、退転への道を歩むことになってしまいます。


ですから魔を「奪功徳者」(功徳を奪う者)というのです。


大聖人が「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるへしはかなし・はかなし」(御書全P1058)と仰せのように、謗法を責める心を失った信心では、絶対に成仏できないことを知らなければなりません。