極悪と戦えば極善となる

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猫さんへ②

②のご質問


「現在の宗門と学会では三宝が違いますが、三宝の違う教団の本尊を信じる必要性とひろめる必要性は?」 について


日蓮正宗で法宝と立てられている戒壇の大御本尊が受持の対象からはずされたことを仰られているのですね。それは現宗門が身延にすりよったり、檀家の謗法を放置するなど現在の大石寺の戒壇が本門の本尊をご安置するのにふさわしくないからです。




もともと日蓮正宗の三宝は


仏宝=日蓮大聖人
法宝=戒壇の大御本尊
僧宝=日興上人


であったはずです。


ところが1991年に宗門が学会に送付した「解散勧告書」には、


【(学会が) 僧宝として日興上人一人を挙げ、日目上人以下の歴代上人は除外している】


【唯授一人の血脈をないがしろにする師敵対の大謗法】


【本宗伝統の三宝義を改変する邪義】


などと、いいがかりがつけられてありました。


しかし、それ以前に阿部日顕自身が以下のような発言をしています。


「歴代法主以下、一般の僧侶についてはあえて僧宝とはいわない」(1980・3月)


「大石寺の基礎教学は、あくまで日興上人を僧宝と立てる」(1981・8月25日 全国教師講習会)


「歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎである」(1983・3月31日 非教師指導会)


本人は、この当時の発言は「師敵対の大謗法」だったと反省しているのでしょうか・・・。日蓮正宗伝統の三宝を破壊したのは学会ではなく日顕自身です。


したがって、日蓮正宗とは三宝の違う教団""日顕宗""の本尊を信じる必要性もないし、ひろめる必要性はない、ということになりますね。