極悪と戦えば極善となる

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猫さんへ③

③のご質問


「戒壇の大御本尊は信受の対象とはしないのに、ご内証をうつされた日寛上人書写本尊が信仰の対象になる理由は?」



弘安二年の大御本尊は、大聖人が全世界の民衆の幸せを願ってあらわされたものです。
しかし、②でも述べたように、現在は謗法の地にあるので信受の対象としないだけであって、大御本尊そのものを否定しているわけではないので、そのご内証を書写された日寛上人の御本尊を受持の対象とすることは何ら問題はないはずです。



大聖人が日興上人に「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」とご遺言されたように、身延のような謗法の山と化してしまった現在の大石寺には、いかに大御本尊がご安置されていても大聖人の魂は住んでいないのです。



大御本尊は、大聖人があらわされたものですが、大御本尊自体に何か、「パワーストーン」のような超常的・呪術的・魔法のような力があるわけではないのです。



よく「ご本尊から功徳をもらう」という言い方をよくしますが、
正式には「御本尊と境智冥合することにより、自分にそなわっている仏界が開いた」という言い方が正しいと思います。南無妙法蓮華経の御本尊は 他宗の本尊のような祈祷の対象ではなく、あくまでも「自身の仏界をうつす明鏡」です。だから大聖人は「観心本尊抄」の冒頭でいきなり本尊の話をせず、まず十界互具・百界千如・一念三千の話をされ、「私たちの心の中に仏界がある」「仏界と九界がそなわっている」ことを繰り返し述べられているし、


また一生成仏抄では、「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外にありとは・ゆめゆめ思ふべからず」と自分の心の以外に法をもとめてはいけないと仰せられています。


「我が己心中の南無妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄)


我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経を本尊とあがめよ、と。
つまり御本尊とは、現代風にいうと私たちの中にある最高に素晴らしい生命をあらわしているのです。


なにも大御本尊を拝まないと、成仏できないということはないのです。
その証拠に御書には大御本尊に関する記述がありません。


(次回に続きます)