極悪と戦えば極善となる

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牧口先生 戸田先生の獄中での戦いー下

昭和19年、戸田先生は獄中で一日一万遍の唱題と、何度宅下げしてももどってくる本「日蓮宗聖典」返り点も仮名もふってない法華経を読み切る挑戦を開始した。獄中に御本尊はもちろん無く、数珠は牛乳びんの蓋で作った。


独房生活は過酷を極めていた。不衛生で劣悪な環境、栄養も全然たりてなかった。
堂々とした体格だったのが、みるみる痩せて栄養失調になった。
看守に麻縄で打たれたり、殴られもした。


【権力をカサにきた看守が、理由もなく戸田先生を一度、二度と殴った。先生は腹の底から焼けつくような怒りが湧いてきたが、囚われの身では、歯を食いしばって我慢するしかない。やがて、房の中で法華経を読み、題目を唱えぬいていったとき、これは自分の宿業を消しているんだということがわかったというのです。そして三度目。春まだ浅い日の入浴の時だった。小さな風呂場へ、四、五十人の囚人が看守にせきたてられながら群がっていく。戸田先生は三十分も待たされ、体は冷え切っていたが、お湯を無駄にしないようにと、後に続く囚人を気遣って体にかかった湯が風呂に戻るような浴び方をした。するといきなり看守の怒声が飛んだ。「貴様!生意気に悠々と湯を浴びたろう!けしからん奴だ!」同時に先生の頬は数回、激しく打たたれた。その時、くやし涙のなかで、はっと「そうだ!もう一度殴られる!四度目に殴られたら、それは帰れるときだ!」と思った、と。その確信の通り、ある時、また狂気の看守が先生の背中を麻縄で、ぴしり!ぴしり!ぴしり!と二十数回も殴った。もちろん激痛だったが、先生は心の中で「きた!四度目だ!これで罪は終わった!」と喜び、叫んでいたというのです。そして戸田先生の獄中の悟達へと続くのです】
(法華経の智慧第五巻 池田先生の言葉より一部抜粋)


題目を唱えては法華経を読み、疲れては休み、また題目を唱えては法華経を読む日々が続いた。法華経の四回目の読了に入った早春、法華経の開経である無量義経の難解な文「三十四の否定」に目がとまり、深い思索に入った。


『仏とは生命なんだ!』
『仏とは生命の表現なんだ!外にあるものではなく、自分の命にあるものだ!いや、外にもある!宇宙生命の一実体なんだ!』


さらに唱題が200万遍を超えようとしていた11月、過去世に虚空会の儀式に参列していたことを思い出し「我、地涌の菩薩なり」との使命を感得した。それは、くしくも牧口先生の殉教とほぼ時を同じくしていた。戸田先生が牧口先生の死を聞かされたのは、その翌年の1月8日だった。


<あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は「よし、いまにみよ!先生が正しいか正しくないか、証明してやる!もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう」と決心した>
                          (牧口先生の十一回忌法要の時)



仏法の厳しい因果の理法により、牧口先生、戸田先生をいじめた特高刑事の一人は、電車にぶつかり、目や口、鼻から血を吹き出し、首が抜けて死にかかり頭蓋骨がはずれ、生きるか死ぬかの大騒ぎになった。牧口先生、戸田先生を軍部に売った法主の鈴木日恭は、昭和20年6月17日、大石寺の火災により焼死。遺体は凄惨を極めており、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。


戸田先生は出獄後、師匠の仇討を誓い、一人学会の再建に立ち上がった。


【(牧口)先生の法難におどろいて先生を悪口した坊主どもよ。法を捨て、先生を捨てたるいくじなしどもよ。懺悔滅罪せんと欲すれば、われらが会にきたって先生の遺風をあおぎ、仏のみ教えに随順すべきであるぞ】(戸田城聖全集)



星落秋風五丈原(創価学会歌)