極悪と戦えば極善となる

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なぜ坊主が堕落していったのかⅠ

伸一は、僧侶が、なぜ、このように、いともたやすく堕落し、悪に染まっていくかを考えさせるを得なかった。


ー戦時中、宗門が、軍部政府の弾圧を恐れて神札を祭ったことは、よく知られている。
しかし、実はそれ以前から、教義の根本にかかわる「謗法厳戒」の教えを、破り続けたのである。


大正以降の主だった事例でも枚挙に暇がない。


一九四一年(大正三年)十一月、日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派の代表が集い、「統合帰一」への基本方針が確認された。そこには、日蓮正宗の第五十七世の法主阿部日正と、後に第六十世の法主日開となる阿部法運が出席とていた。日開は、第六十七世の法主日顕の父である。


この時、日正は、身延派との「統合帰一」に賛同の署名をしたのであった。


その後、「統合帰一」は破綻するが、二二年(同十一年)十月、天皇から日蓮大聖人に「立正大師」という大師号が宣下された際にも、日正は日蓮宗各派と行動をともにしている。


この大師号の宣下は、顕本法華宗の管長である本多日正の呼びかけで始まった動きであり、伝教大師、弘法大師などと同様に、大聖人に大師号を賜りたいというものであった。


日正は、「日蓮聖人大師号降賜請願」と題する請願書に署名し、「立正大師」の号が下された日には、日蓮宗(身延派)の管長の導師で、一緒に寿量品を読経し、唱題したのだ。大聖人の御精神とは正反対の権力への迎合である。


また、日蓮宗各派といえば、大聖人の法義を破り、獅子身中の虫となった宗派である。その管長と勤行することは、「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事(旧御書・一六一八ページ)との日興上人の御遺誡に背く行為であることは明白である。


                        (新・人間革命8巻 宝剣の章より)