極悪と戦えば極善となる

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日蓮正宗の身延コンプレックス

日蓮正宗法主による謗法は、さらに続いた。


一九三一年(昭和六年)十月の大聖人の第六百五十回遠忌を前にして、日蓮宗では、大聖人の「大師」号となった「立正」の文字を認めた天皇の勅額を、身延山久遠寺に下賜してもらおうとの計画を進めていった。


日蓮宗(身延派)は、天皇の「立正」の勅額を得て、自宗派が日蓮宗各派の中心であることを示そうと画策したのである。


この身延山久遠寺への勅額降賜の請願に対して、文部省からは、日蓮宗各派の管長の承諾を得るようにとの要請があった。


日蓮宗の高僧は、念書を持って各派の管長を訪ね、大石寺にもやってきた。


当時の正宗の管長は、阿部日開であった。


彼らの用意した念書には、身延山久遠寺が宗祖の「廟所在地」であるとしたうえで、久遠寺住職から請願のあった勅額の下賜の件は異議がない旨が記されていた。つまの、身延こそ、大聖人の御霊骨を納めた廟所、すなわち、墓所であると明言しているのである。


日開は、なんとこの念書に、管長として署名・捺印したのである。


(新・人間革命8巻 宝剣の章より)