極悪と戦えば極善となる

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血で血を洗う法主追い落としクーデター

1925年(大正14年)、58世・日柱が客殿で勤行を行っていた際、ピストルのような爆発音や投石により脅される事件が多発した。


同年11月20日、宗会で日柱に対して不信任決議が出され、それが可決、辞任勧告書も出され、日柱は同24日、辞任に追い込まれた。


この事件を知った大石寺の檀家総代や東京の信徒は猛反発、大騒動となり、文部省が介入し、選挙により管長を選ぶことをになった。



この日柱を猊座から降ろそうとしていた黒幕は、日顕の父、日開だった。


発端は、1925年(大正14年)7月、機関紙「大日蓮」に日開が他宗破折の論文を出すが、その論文がお粗末で内外から失笑され、日柱は激怒。日開の宗務院総務の役を解任、能化からも降格させたので日開は日柱をかなり恨んでいたものと思われる。


選挙の結果、猊座に堀日亨がついた。
日亨は、この騒動を「拭うべからざる汚点」とし二年後に、


「旧例に無き管長候補者選挙を為した事が、如何にも忍ぶ能わざる屈辱」
「一時の中継法主であれば、御相承の大体などは強いて行うにも及ばざるべき」


との文書を残し退座する。


堀日亨は、後の1951年にこう語っている。


「口決相承等というものは信仰の賜じゃよ。信仰もなく、学も行もない、親分・子分の強いているヤクザの貫主が、いったい何を伝授するというのか」