極悪と戦えば極善となる

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自分自身が南無妙法蓮華経

序品の御義口伝は、「第一『如是我聞』(かくのごときを我聞きき)から始まります。法華経全編の冒頭の一句だからです。「如是我聞」とは、多くの経典の冒頭に出てくる句で、「私は仏からこう聞いた」という意味です。


「聞く」こと一つみても、仏法では、自分が主体となって「聞く」という意義があります。



「如是我聞」の一句からは、釈尊と弟子たちとの不二の絆が浮かびます。
全生命を賭して、仏である師の言葉を受け止め、実践しぬていきたからこそ、「このように、私は聞いたのだ」と確信もって語り得たのです。


始めに天台大師(538年~597年中国陳、髄の時代に活躍した僧。弟子の章安が『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』の天台三大部を筆録。『法華文句』は、法華経冒頭の「如是我聞」から、末尾の「作礼而去」までの一字一句を解釈し、講説している)


の『法華文句』にある「『如是』とは、所聞の法体を挙ぐ。『我聞』とは、能持の人なり」
を引かれ、「御義口伝に云く『所聞』の『聞』は、名字即なり。『法体』とは、南無妙法蓮華経なり」(新986・全709)と説かれています。


つまり「我聞」の本質とは、「自らが南無妙法蓮華経の当体である」ことを聞いた、というのです。


法華経の如是我聞には、他の誰でもない、自身の生命がいかに尊極であるのか、そのドラマが描かれているのです。


     (2022・大白12月号 池田先生 御義口伝要文講義 P27・28)