極悪と戦えば極善となる

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生死の苦しみを乗り越える

「生死の闇を照らし晴らして」「生死即涅槃と開覚する」とあります。
これは、生死を「本有の生死」として正しく捉え、生も死も三世の生命に具わる変化の姿であると悟ることです。


確かに生死は、誰もが逃れられない苦悩かもしれない。
では、死は全ての終わりを意味するのか。
怯えて迎えねばならない闇なのか。
断じて、そうではない。
仏法の永遠の生命観こそ、その闇を打ち払い、限りない希望を贈る光源なのです。


三世の生観に立てば、死は、次なる生への出発であり、大いなる生命の営みである。
大聖人は「臨終正念」(臨終にあたり、正しい念慮(思い、考え)をもつこと。仏道を歩み続け、成仏を確信し、大満足の心で臨終を迎えること)の信心に励んでいくことで、誰人もが生死の苦悩に縛られず、何ものにも壊されない金剛不壊の生命に鍛えあげていけると断言されています。


私たちは、今この時にも、わが一念を、大宇宙の根源の法である南無妙法蓮華経に帰し、命づくことで、瞬間瞬間を完全燃焼し、生死の苦悩を涅槃へと昇華することができる。これが、創価家族の「常楽我浄」(仏の生命に具わる徳目。常とは、仏が完全な永遠性を実現していること。楽とは、完全な安楽。我とは、完全な主体性。浄とは、完全な清らかさをいう)の軌道です。


 (2022・大白12月号P35 池田先生講義 御義口伝要文編より)