極悪と戦えば極善となる

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不信の生命を打ち破る利剣

【不信の人は「如是我聞」の「聞」にはあらず法華経の行者は「如是」の体を聞く人と云うべきなり。ここをもって文句の一に云わく「『如是』とは信順の辞なり、信ずれば即ち所聞の理会し、順ずれば即ち師資の道成ず」。詮ずるところ、日蓮等の類いをもって「如是我聞」の者と云うべきなり云々。】(御書新版986ページ9行目~12行目、御書全集709ページ7行目~710ページ1行目)


現代語訳 (不信の人は、「如是我聞」(かくのごときを我聞きき)の「聞」ではない。法華経の行者は「如是」の体を聞く人というべきである。ここをもって、天台大師の『法華文句』の巻第一には、「『如是』とは、信順の言葉である。信ずることによって聞く所の理を会得し、順ずることによって師弟の道を成ずるのである」と述べている。所詮、日蓮およびその弟子たちを指して「如是我聞」の人というべきである)


<池田先生講義>


今回拝する御文には、「不信の人は『如是我聞』の『聞』にはあらず」とあります。注意すべきは、「不信」と、いわゆる疑問や懐疑とは同じではないということです。大聖人は「開目抄」に「疑いを強くして答えをかまうべし」(新74・全203)等と、弟子の疑念を真正面から受け止め、一つ一つを明確に晴らし、確信を深めさせています。どんな疑いにも、文証(経文)、理証(道理)、そして現証の上から微動だにしない。「智者に我が義やぶられずは用いじ」(新114・全232)と仰せの通りです。


この一節は、先師・牧口常三郎先生も座右の御書に線を引かれていました。御義口伝で戒められている「不信」とは「『如是我聞』の『聞』にはあらずー自分自身が妙法の当体であると信じられないということです。それは、元品の無明(生命の根源的な無知。究極の真実を説きあらわした妙法を信じられず、理解できない愚かさ。また、その無知からおこる暗い衝動)に覆われている生命の姿です。


続いて「法華経の行者は『如是』の体を聞く人と云うべきなり」とあります。「不信の人」に対して、「法華経の行者」は、真実の「信の人」であり、妙法を仏の示された通りに実践しているということです。仏の広大な世界に入る門が「信」です。「元品の無明を対治する利剣は、信の一字なり」(新1047・全751)と仰せの通り、純心無二に信じる心、大聖人の魂に触れようとする真剣な求道心、信心を根本とした実践がなければ、無明の深い闇は打ち破れないのです。   (2022年 大白12月号 P28~P31 池田先生講義 御義口伝要文 序品第一より)