極悪と戦えば極善となる

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法灯連綿の幻想


大石寺は日目上人が亡くなると、大石寺の土地を巡って日道と日郷の間で約70年にわたる抗争がおこり、日郷一門は大石寺から退去。その日郷の流れをくむのが「保田妙本寺」である。


大石寺は、室町時代には人材が枯渇し、14歳で猊座についた12世日鎮、10歳で猊座についた13世日院、18歳で猊座についた14世日主など、いわゆる『稚児貫首』が続いた。稚児貫首の批判をかわそうと、14世日鎮の教育係であった左京日教は、「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代わりて出世したもう」などと法主本仏論の邪説を唱えた。(富士宗学要集2巻)左京日教の師である日有は、法主が僧俗の師匠であるとしたが、法主が「本仏である」とは主張しなかった。左京日教が出てくる以前はこのような主張をする者はおらず、こうした考えは、仏法に違背する貫首があらわれることを想定し、「時の貫首たりといえども仏法に相違して己義を構えば、これを用うべからざること」との日興上人の御遺誡から完全に逸脱している。


その後、大石寺では1596年~1692年までの間、人材不足で他門流の要法寺からスカウトした。(第15世日唱~)その間、17世の日精にいたっては、末寺に釈迦像を安置、法華経の一部読誦などを主張、「造仏読誦」の大謗法をおかした。日精の件は、貫首であっても謗法をおかしてしまう危険があることの事例である。


明治の世になると、56世日応などは遊興ざんまいで多額の借金をかかえ、不祥事を隠蔽するために子飼いの阿部日正に相承しようと画策した。日正は土屋日柱と猊座を争い、土屋日柱は、明治41年、日正一派である水谷秀道の女性スキャンダルを暴露、大石寺の山林を不正に売却したとの理由で告訴する。水谷はその事件を全面否認、逆に土屋日柱を「誣告教唆罪」で告訴。土屋日柱は、静岡地裁検事局に二か月以上勾留され、その間、チャンスとばかりに日応は日正に猊座を譲った。このような醜い権力争いだけでなく、女性スキャンダルをおこす貫首もでてきた。61世日隆などは若い芸妓に夢中になり、寺の財産を使い込み、背任罪となる。一般紙には「妾狂ひで背任」と報じられた。


【「金口嫡嫡唯受一人血脈相承」「法灯連綿七百年」どれも聞き心地のいい言葉である。しかし、史実とは違うこうした言葉を金科玉条している限り、‘’法主‘’は権威の塊となり、「現代における大聖人様」となる。肉食妻帯し血縁を結び、そのしがらみのなかで、在家に知られてはならぬ恥部を隠し、ただ生きのびる。生き延びる糧を運ぶのは、虚偽の事実を真実と信仰したがる信者たちである。猊座が朦朧と高くそびえればそびえるほど、供物もまた高く供えられる。かくも愚かなる精神的退歩の上に成り立つ宗教もあるのである】
                   (北林芳典氏著 「暁闇」より一部抜粋)