極悪と戦えば極善となる

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お金のためなら謗法を犯すことも厭わぬ教団

この貧弱で貧しく、お金のためなら謗法を犯すことも厭わぬ教団が明治三十三年、戸田会長の誕生を希求していかのように「日蓮宗富士派」として、やっと独立するのである。だが、独立した教団になったからといって、‘’濁流‘’が急に‘’清流‘’に変わったわけではない。
信徒の浄財を軍資金として(日露戦争の際に)献納したばかりか、「戦勝守護の御本尊」一万幅を配布するという正法弘通の路線からの大脱線ぶりだった。「日蓮宗富士派」というのは、‘’清流‘’どころか〝泥沼‘’の様相を呈していたのである。


そして同四十五年六月に「日蓮正宗」と公称したが、この頃から宗門は謗法、教義逸脱の最盛期へと向かう。創刊したばかりの『大日蓮』には念仏、親鸞を讃嘆する論文が掲載(第一巻第二号)されたのをはじめとして、『大日蓮』『百蓮華』などの機関紙の広告欄には、「日蓮上人の御影」「日蓮上人御真筆御本尊織込純金襴」「祈禱三秘要録」「説教百座要集」「木魚」の宣伝文が氾濫。さらには浄土真宗、大谷派議制局、本派本願寺事務所が推進する薬の広告などが数多く見受けられる。


無数のある謗法、教義逸脱の中には打算的な利潤追求を目的とするものが目立つが、なかには当時の時代社会に対応しなければならない一面があったことも理解できないわけではない。だが、こうした条件を考慮しても、なおかつ、容認できない謗法が多すぎる。牧口初代会長、戸田第二代会長が入信したのは、昭和三年。謗法を糾弾して大聖人の仏法を復興させ、広宣流布していこうとの、勇気ある決断だった。この年には、淫乱法主・阿部日開が策略を巡らして猊座を盗みとり、その子供とされている天魔の落とし子・日顕(当時は信夫、昭和三十一年に信雄と変更、母は彦坂スマ)が得度した。


宗門は狂乱法主・日顕にひきづられて「日顕宗」に成り下がり、日亨上人の‘’学会がなかったら日蓮正宗はつぶれる‘’と心配された言葉が現実になろうとしている。第六天の魔王に魅入られた日顕によって日蓮正宗は、邪教「日顕宗」に変わり果て、自滅の道を進んでいる。過去の歴史も謗法、現在も、未来もまた謗法。日蓮正宗が真に‘’正宗‘’たりえたのは、学会と共に歩んだ六十年間のみであった。(地涌567号より一部抜粋)