極悪と戦えば極善となる

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退転の本質は保身と臆病

法難を回避することはできない。ゆえに大聖人は「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(全・P1282)と叫ばれたのだ。しかし、大聖人門下のなかにも、正義ゆえに大難が競い起こることを、受け止められぬ者がいた。師である大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難に遭うと、恐れと、師への不信感をいだいたのだ。


彼らは「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし」(全・P961)と言い出したのだ。経文の随所に、法難が起こることは間違いないと記されているにもかかわらず、大聖人の折伏が剛直すぎるからだと、法華経の行者である師を批判したのだ。


退転の本質は、臆病であり、保身にある。しかし、自己を正当化するために、問題を方法論などにすりかえて、正義の人を攻撃するのが、退転の徒の常套手段である。いかに時代は変わろうが、信心のある人には、広宣流布の前進あるところには、必ず魔が競い、難が襲う。 
               (新・人間革命27巻 正義の章より一部抜粋)