極悪と戦えば極善となる

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「事顕本」と「理顕本」Ⅰ

斉藤 「一切衆生が如来である」という点についてですが、まず寿量品の「発迹顕本」を
    ふり返ってみます。釈尊が今世の修業で成仏したという「始成正覚」を否定して
   じつは五百塵点劫の昔から娑婆世界で説法し続けてきたと明かします。これを
   「事顕本」と呼ぶ場合があります。


名誉会長 「理顕本」に対する言葉だね。「御義口伝」にある。


須田 はい。「随喜功徳品(第十八章)」の「随喜」について「随とは事理に随順するを云う
   なり(中略)事とは五百塵点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に従うなり所詮寿
   量品の内証に随順するを随とは云うなり」(御書全P761)とあります。


遠藤 「法師功徳品(第十九章)」の「御義口伝」にも「寿量品の事理の顕本」(御書全P763)
   と仰せです。


名誉会長 事理の顕本にさいては、古来、天台宗等でも、いろいろな議論があるが、端的に
     言うと、どうなるのだろうか。


斉藤 はい。一般に「事」とは、現象として現れたものであり、「理」とはその現象の奥に
   あって目に見えない理法とか理体を指します。今の場合、「事顕本」とは、寿量品の
   説法そのものです。「五百塵点の事顕本」とある通りです。これに対し、「理顕本」
   とは、文上には、はっきりと説かれていないけれども、「事顕本」が内々に示して
   いる「久遠元初の自受用身如来の顕本」を指すと言ってよいと思います。


名誉会長 結論的には、そう言えるでしょう。「分別功徳品(第十七章)」の「御義口伝」に
     (一念信解の)信解について、こうあった。「信の一字は寿量品の理顕本を信ず
     るなり解とは事顕本を解するなり」(御書全P760)云々と。


     理顕本は、はっきり説かれていないから「信ずる」しかない。
    それは、とりもなおさず事顕本の本義を「解した」ことになるのです。


須田 寿量品の説法(事顕本)を聞いて、人々は何を悟ったのか。それは「理顕本」だという 
   ことですね。


名誉会長 「顕本」などというと難しく感じるが、「自分の本領を発揮する」ということで
     す。日本の時代劇で言えば「水戸校門」です(笑)最後に正体を顕すでしょう。
     あれは一種の顕本と言ってよい(笑)


              (法華経の智慧 第五巻 「事顕本」と「理顕本」より)