「事顕本」と「理顕本」Ⅳ
名誉会長 しかし永遠性といっても完全に永遠ではない。(久遠実成の釈尊が)
どこまでも「有始」(始めがある)の仏です。だから無始無終の宇宙即妙法と
一体とはいえない。すき間がある。ゆえに文上の仏は「法勝人劣」です。
(法が勝れ人が劣っていること)
寿量品の真意は、この「永遠性の仏」を通して、完全なる永遠の仏(久遠元初の
自用身)を示唆するところにあったのです。この「永遠の仏」は無始無終の妙法
と一体です。宇宙の大生命そのものであり、「人法一箇」です。
遠藤 ということは、宇宙の一切衆生が、そのまま「永遠の仏」だ、ということになりま
す。
名誉会長 生きとし生けるものが本来、仏なのです。これが寿量品のさけびです。
これに目覚めよと法華経は訴えているのです。
斉藤 整理しますと、文上の顕本は「釈尊個人の顕本」、文底の顕本は「全法界の顕本」
ーこうなります。
須田 スケールも広さも全然違いますね。
名誉会長 まるっきり次元が違う。本門と迹門の違いが「水火天地の違目」(御書全P996)
と言われている真意は、文底の顕本を知って初めてわかるのです。
遠藤 「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(御書全P770)と大聖人が言われた本義も
文底の次元から言われているわけですね。
(法華経の智慧第五巻 「事顕本」と「理顕本」より)
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