「第一義悉檀」と「対治悉檀」は一体不二
斉藤 正義を示す「第一義悉檀」と悪を打ち破る「対治悉檀」は一体不二ですね
名誉会長 その根本はやはり「慈悲」です。大聖人は「開目抄」で、ご自身が折伏を行じ
諸宗を厳しく破折されている意味を涅槃経を解釈した章安大師の言葉を引いて
示されている。
森中 拝読します。
『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり
慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり
能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり
彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり
能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり』
(御書全P236)
<現代語訳>
仏法を破壊し混乱させる者は仏法の中の敵である。そうした者たちと詐って親しむ慈悲のない者は、かえってその人たちに害をなすものである。進んで糾弾し、治罰する者は、正法を
護持する声聞であり、真の我が弟子である。彼のために悪を除いてやるのが、彼の真の親で
ある。よくその誤りを糾弾する者は、我が弟子である。仏法の敵をその場から追放しない者は、仏法の中の敵である。
斉藤 ここで仰せの「呵責」とは悪を責めること、「駈遣」とは悪を追放することを
いいます。この言葉に照らして見る時に、一切衆生を仏にしようとの深い心を
踏みにじって、仏法を破壊し、混乱させている諸宗を徹底して責めることは、
仏法者としての責務であり、真の慈悲の行為です。
名誉会長 大聖人の実践される折伏行は、どこまでも邪法に惑わされている人々を目覚め
させ、救っていこうとの、大慈悲の御精神に基づくものです
私たちの折伏の実践もまた、どこまでも大聖人の大慈悲の御精神に連なって
一人の人を必ず救っていこうとの一念に基づくものでなくてはならない。
(御書の世界 第三巻 人を敬う実践より)
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