極悪と戦えば極善となる

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要法寺系貫首の「随宜論」

前の記事にも書いたが、大石寺では人材不足で京都要法寺から貫首をスカウトした時期があった。その期間およそ100年。大石寺十五代日昌~二十三代日啓までの九代にわたる。



要法寺出身の大石寺十七世貫首日精は、十六世貫首日就の弟子となり、元和九年に阿波徳島の藩主・蜂須賀至重夫人の敬台院が江戸浅草の鳥越に建立した法詔寺の住職となり、法詔寺に釈迦仏像を造立した。



日精は、寛永九年に貫首になるものの、釈迦像を造立したことに批判が相次ぎ、それを受けて寛永十年に「随宜論」(ずいぎろん)をあらわし、大聖人が仏像を造立しなかったのは、あらゆる場所を転々とされたためであり、‘’造仏が誤りであるというのは大聖人の本意ではなく、造仏が堕地獄の原因とするのは間違いである‘’と主張。



大石寺三十一世貫首日因は、後に日精があらわした「随宜論」の巻末に
【当家の実義と大相違なり】と筆を添えている。


                                                              (参考文献 河合一氏著 「暗黒の富士宗門史」より)