極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

拷問にも屈しなかった農民 茂左衛門

伊那・小出郷の農民・(城倉)茂左衛門は、代々の曹洞宗常輪寺の檀徒でしたが、近くの日蓮宗深妙寺の勧めで日蓮宗を信仰するようになり、宝暦十三年(1763年)、十九歳の時に、法華千か寺参りにでかけ、富士大石寺へ参詣して正法に帰依し、伊那へ帰って弘教を始めました。


やがて信徒が増加すると、茂左衛門は屋敷の中に五間四面の経堂を建て、題目講と名づけて
大勢で題目を唱えるようになりました。そして、曹洞宗光久寺・常輪寺、日蓮宗深妙寺の
三か寺が訴え出たため、高遠藩の寺社奉行所から三十余人の捕り手が向かい、茂左衛門、
左平治、藤左衛門の三人を逮捕し、投獄したのです。



キリシタンの疑いがあると訴えられたようで、その証拠が見つからないため、茂左衛門は三日にわたって、拍子木責め、水責めなど、命が絶えるような過酷な拷問にあいましたが、


「いかに拷問され候とも、題目の儀、息の続く間、唱え申し候」


と少しも屈せずに信心を貫いたのです。



キリシタンという証拠がないため、茂左衛門と家族は所払いになり、田畑と屋敷は没収されました。その他の信徒で蟄居(家から出ないで謹慎する)させられた人もいたようです。
また茂左衛門を讒訴した三か寺も閉門にあっています。


それから二十三年後に、茂左衛門は所払いを許されて伊那に帰っています。
その後も、百余年に渡って、夜毎に信徒が集まって唱題したり、御書を研鑽する「一文講」が続いています。


伊那法難は、武士が中心だった金沢法難とは異なって、土に生きる農民の熱烈な弘教によって起きた法難でした。ここでも、僧侶は全く関わっていません。


               (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)