極悪と戦えば極善となる

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信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅰ

尾張国(現在の愛知県)の名古屋とその近在でも、民衆による弘教が進みました。
幕末に近い文政五年(1822年)ごろ、江戸の目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、二年にわたって大石寺の末寺のない尾張地方へ行って弘教したのが、その発端となっています。



清十郎は若いころは日蓮宗一致派(身延派)の信徒でしたが、後に大石寺に帰伏し、東北地方から尾張まで、各地へ行って弘教に励んでいます。法論も巧みで、天保年間(1830年)ごろに、日蓮宗一致派の有力な信徒と法論して打ち破った「砂村問答」で有名です。



清十郎によって最初に入信した名古屋の高崎たよ女が、弘教に立ち上がって女性だけの「六日講」を結成し、文政七年には尾張徳川藩に仕えていた息子の高崎勝次も立ち上がって「本因妙講」を結成するなど、急速に信徒が増加していきました。



清十郎は、名古屋の北在(現在の小牧市・犬山市・春日井市など)の各地へも弘教を進め、
船橋儀左衛門、平松増右衛門、木全右京、岩田利蔵などが入信しています。いずれも農民か町民の身分でしたが、学識もあり、もと日蓮宗の信者だったために、教学の素養もあった彼らが、正法に目覚めて弘教に励んだので、この地方にも多くの信徒が生まれていきました。



そして日蓮宗一致派(身延派)や顕本法華宗、八品派などの僧俗と各地で法論を戦わせ、いたるところで打ち破ったので、日蓮宗各派は激しく怨み憎んで、寺社奉行に訴えて弾圧を加えたのです。そのため迫害は前後四回に及び、五十年にもわたりました。



最初は文永八年(1825年)から翌年にかけて、藩の役人が名古屋北在の信徒の家へ押しかけ、
御本尊を取り上げ、家族を打ったり蹴ったりして迫害を加える、という事件がおきました。
難の中心となったのは船橋儀左衛門等でした。


                (河合一氏著 暗黒の富士宗門より一部抜粋)