極悪と戦えば極善となる

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信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅱ

天保八年(1837年)の秋に、再び迫害がおこっています。文政の法難で御本尊を取り上げられたことで警戒した信徒たちは、仏壇の正面には涙をのんで檀那寺からの仏像を並べ、その陰に御本尊を安置していました。ところが平松増右衛門は仏壇改めをされ、そのまま名古屋の寺社奉行に呼ばれ、長期にわたる取り調べを受けました。岩田利蔵、木全右京も同じ目にあっています。小牧方面でも次々と弾圧がおこり、翌九年の春まで断続的に続いています。



弘化の末年(1847年ごろ)から嘉永の終わり(1854年ごろ)までの八年間は、殆ど毎年のように弾圧が続いた、法難が最も激しい時期でした。嘉永元年(1848年)二月に、妙楽寺の智定院という僧が木全右京に邪義を破折されたことから、右京と息子の左京を呼んで、謝り証文を出すように脅し、右京が八幡宮の社人をしていたのを追い出そうとするなど、迫害が強まりま
した。


八月二十五日には、寺社奉行の命だといって、右京を本遠寺に呼びつけてそのまま拘禁し、
二十九日には、身延派の僧俗八十四人が右京を奉行所へ送り、利蔵、善之衛門らも連行しています。その取り調べは苛酷で、笞(むち)や杖で打たれ、利蔵は石三枚を抱かされるという拷問が加えられました。


また、ならず者を取り調べの場に連れ込んで、善之衛門を暴行し責めました。
九月九日に善之衛門は許されて村へ帰りましが、半死半生の病人になっていました。
右京と利蔵の二人は、首謀者と見られ、拷問が続き、拘留されたままでした。



増右衛門らが内願書をしたためて国家老を動かそうとした結果、同情した国家老が寺社奉行に注意したので、九月二十七日に右京が釈放され、十月四日には利蔵が村へ帰されました。
しかし二人とも、拷問のために身体の自由がきかず、駕籠に乗って帰る状態でした。
十月二十二、二十三日には、残った増右衛門らが吟味を受けています。


                   (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)