極悪と戦えば極善となる

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金沢法難

加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に富士門流の信仰が弘まったのは、五代藩主・前田綱紀の代に、江戸藩邸の近くにあった常在寺で正法を聞いた藩士の中から入信したものが出て、金沢へ帰って弘教したことから始まったとされています。


寛文三年(1726年)ごろ、福原次郎左衛門らが最初に入信して弘教に励み、主に下級武士の間に入信者が続出しましたが、正式には改宗ができないため、内得信仰をするしかなかったのです。


享保十一年(1726年)に、金沢にあった日蓮宗慈雲寺の僧・了妙が、遊学して研究した結果、大石寺派に改宗して、細草談林に入ったことが問題になりました。それを契機として、前田藩内での富士門流の信仰が禁止されてしまったのです。


前田家の領内(加賀、能登、越中の三か国)に富士門流がなかったので、前田藩では「禁制の邪宗とまぎらわしく、宗門改めに不都合である」として、信仰を禁止する触れを出しています。


それは、「大石寺派は幕府から禁制されている不受不施派に紛らわしい」などと中傷した、日蓮宗身延派の僧侶からの答申が出ていたためでした。


日蓮大聖人は


【此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず】
                            (兄弟抄御書全P1087)


と教えている通りなのです。


そのため日詳法主は、翌享保十二年に、前田藩に対して領内に一末寺を建立したいと願い出ましたが、却下されています。その願書の中に「数十年来、累代の信受数千人」とあり、
当時、すでに数千人に及ぶ信徒がいたことがわかります。


しかし、幕府の寺社奉行に訴えることも出来たのに、宗門は願いでませんんでした。
その理由を、堀日亨上人は「自山(大石寺)の危険を案ずる」ためと「金沢の多数の信徒が重刑に処せられることを心配したためであろう」と指摘しています。


                   (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)