極悪と戦えば極善となる

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誰も血脈相承された者はいなかったⅠ

細井管長は亡くなる前夜、大奥の寝室ではなく対面所に布団を敷けと命じ、菅野、光久両名にそこに来るように厳命した。後継指名の儀式をしたことは疑いない。その願いもむなしく、細井管長は逝った。このドタバタの中で阿部信雄(日顕、この時総監)は、法道院の早瀬日慈とともに菅野を大奥の一部屋に誘い込み、


「日達上人から何か聞いてないか」


と念を押した。菅野は


「はい。何も聞いておりません」


と答えたという。


この時、阿部とともに菅野を詰問した早瀬が後年、法道院の地元・豊島区の創価学会幹部に、


「藤本は小心者で、実質的に阿部しかいなかったのです。私が我慢したからそうなったのです」


と述べている。(藤本とは、当時庶務部長だった藤本栄道)


最後の力をふりしぼって相承をしようと細井日達管長が、対面所に床を敷くことまで命じ、
娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と御仲居・光久諦顕を呼ぼうとしたのは、七月二十三日である。しかし、細井管長が対面所に戻ることはなかった。


もともと阿部信雄の日号は『日慈』と決まっていた。しかし、皮肉なことに法道院の早瀬がすでに「日慈」を名乗っていた。日顕は出家得度の時につけられた「日慈」を名乗るわけにもいかず、自ら「日顕」と名乗った。父が「日開」であったことから開顕をもじったわけである。


                    (北林芳典氏著 『暁闇』より一部抜粋)