極悪と戦えば極善となる

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戸田先生の生命論がわからない日顕

「無量義経でいくらこの思索をして考えて、これは生命だと考えても、それはまだ迹門のところにも、これも妙法蓮華経のところにもきてないんだから。それを先取りしてそれは生命だっていうんだからね。(略)あんなものが久遠元初の悟りだってことは間違いだってことを、私はいってるんです。ねっ。そんな、なんです。摧尊入碑はいけません!」 
               (1992年8月28日 全国教師講習会での日顕の発言)


折伏したこともなく、法難も受けず、「御本尊を信じることができない」代々坊主の「おぼっちゃま法主」の日顕には、法華経の故に獄につながれ御本尊もない中、法華経を身で読まれた戸田先生の深い境地は到底、理解できなかったのだろう。戸田先生は過酷な環境の中、200遍の唱題を達成された。「お題目はあげすぎると弊害がある」などという珍説を述べる日顕、いったい、どんな修行をしてきたのだ。


「無量義経では法華経迹門にも妙法蓮華経にも到達していないから悟りを得ることができない」と偉そうに戸田先生の悟達に難癖をつけているが、日顕は、日蓮仏法にあいながら、以下のように放言している。


「お題目を唱えて、我々の仏界涌現、仏界涌現っていうんだ。これはまさしく大謗法だよ」
                       (1994年・8月 全国教師講習会)


「そんな簡単にね、我々凡夫が、仏界が現れたり、悟ったりできるんだったら、末法の凡夫はみんな仏になってんだよ」(同)



「お題目を唱えたからといって、直ちに九識の境界を得ることができたなどということは、おそらくない」(2004年・8月夏期講習会)



日顕は、お題目を唱えたからといって成仏できないと言っている。
自分こそ、【妙法蓮華経のところに到達していない】のではないか。
日顕宗では、いったい、どんな修行をしたら仏になれるの?



自他ともの仏性が信じられない日顕。
凡夫の心に仏界が具わっていることが信じられない日顕。
日顕は、仏法の基本中の基本がわかっていないのである。