極悪と戦えば極善となる

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戸田先生の獄中の悟達「仏とは生命なり」Ⅰ

昭和十九年正月元旦から、厳さんの独房生活は忙しくなった。
法華経を読むことと、題目を一万遍以上あげるという二つが加わったからであった。
白分の法華経を読むことは、大学与科で学んだだけの漢文の力では骨が折れたが、彼は勇敢にぶつかって、疲れれば題目をあげ、題目を終えれば法華経に突進していった。


しかも、彼は滅茶苦茶には突進しないで、規則正しく、毎日、法華経は、どこまで、題目の数は一回幾百、一日一万以上、そして御遺文も必ず読むことにしたから追いかけられているような忙しさ。


そして法華経を白文で三度読み返した時は、寒い正月も二月も過ぎていたが、朝夕の勤行で誦読している方便品第二に、『其の智慧の門は難解難入なり』とも、『第一希有難解の法なり』ともあるように、法華経を白文で読むことは出来ても、釈尊の本懐がどんなものなのやら、彼には汲み取ることが出来ない。


(仏とは、いかなる実存か・・・・)


厳さんは仏法研究の初歩へ突き返された気持ちになり、初歩からやり直すしかできなくなり、やり直す決心をした。


(南無妙法蓮華経とは、いかなる実体なのか・・・)


彼は白文の法華経を前にして思索に耽り、思索に疲れると、題目を唱え、題目を唱えて、気力を恢復してくると、思索に没入した。三月初句の寒い日であった。厳さんは法華経の開経である無量義経を前にして、眼鏡の底の眼を鋭く光らしていた。開経とは、本経を説かれる前の予備、下準備に説かれる序経のことで、論文に序論、本論、結論とある・・・その序論に当たるのだ。


『(略)其の身は有に非ず亦無に非ず。因に非ず縁に非ず自他に非ず。方に非ず円に非ず短長に非ず。出に非ず没に非ず生滅に非ず。造に非ず起に非ず為作に非ず。座に非ず臥に非ず行住に非ず。動に非ず転に非ず閑静に非ず。進に非ず退に非ず安危に非ず。是に非ず非に非ず得失に非ず。彼に非ず此に非ず古来に非ず。青に非ず黄にも非ず赤白に非ず。紅に非ず紫種種の色に非ず。・・・(略)』


厳さんの眼鏡の底の眼は無量義経の徳行品第一を読んでいって、偈のところへくると、白い焔のように光って、早速、眼が読み進んでいるのではなく、頭で読んでいるのでもなく、彼はその一字一句へ逞しい身体を叩きつけているのだった。


(略)思索を打ち切って題目を唱えだした声が独房に響き渡り、それが消えると、彼は死物狂いの思索に入っている。


『仏とは生命なんだ!』


厳さんが机の前で叫んだ時、凍った海底のように、寒さを湛えてシン! となっていた部屋に、強く両手を打ち合わせた音がぱあん! と響いた。


『仏とは、生命の表現なんだ! 外にあるものではなく、自分の命にあるものだ!いや、外にもある!それは、宇宙生命の一実体なんだ!』


厳さんは独り叫び続ける。紅い血が頬に踊っており、眼鏡の底の眼が怪しいまでに輝いている。


『仏とは生命なんだ!』


                          (戸田城聖全集第八巻 P496 )


厳さん=小説 人間革命に登場する戸田城聖先生