極悪と戦えば極善となる

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「事顕本」と「理顕本」Ⅱ

遠藤 ただの「隠居じじい」だと思っていたら(笑)じつは「前の天下の副将軍だった」と
   (笑)たしかに顕本です。


須田 悪人はぎょっとして腰を抜かし(笑)善人は大喝采。これは「顕本」の功徳ですね。


名誉会長 もちろん譬えていえば、です。外国の小説でいえば、巌窟王として有名な
     「モンテクリスト伯」博学で大富豪の伯爵が「正体」はエドモン・ダンテス
     青年の変わった姿だと明かすシーンです。これも一種の「顕本」といえるかも
     しれない。まあ、復習のためのドラマではあるが・・・


斉藤 水戸黄門をそれまで軽く見ていた人が「えっ」と驚く(笑)
   法華経でも、はじめ文殊菩薩とかの大菩薩は、釈尊の弟子ではなくて、他の仏の弟子
   ということになっています。そこで釈尊を「成仏したばかりの新仏」のように見てい
   るわけです。それが実は久遠からの仏なんだと教えられ、そういう迷妄を打ち破ぶら
   れています。


遠藤 そうすると、例の「助さん」「格さん」というのは、「脇士」ということですね(笑)


名誉会長 だから「黄門さま」の正体を知っている人は、「脇士」を見ただけでドキッとす
     る(笑)


須田 「あ、これは裏に、‘’親分(黄門)‘’がいるんだな」と(笑)


斉藤 事顕本と理顕本の関係も、それに似ているかもしれませんね。釈尊の「事顕本」
   を見て(聞いて)わかりの早い人は、その裏にある「理顕本」までわかってしまった
   ということです。


         (法華経の智慧 第五巻 「事顕本」と「理顕本」より)

「事顕本」と「理顕本」Ⅰ

斉藤 「一切衆生が如来である」という点についてですが、まず寿量品の「発迹顕本」を
    ふり返ってみます。釈尊が今世の修業で成仏したという「始成正覚」を否定して
   じつは五百塵点劫の昔から娑婆世界で説法し続けてきたと明かします。これを
   「事顕本」と呼ぶ場合があります。


名誉会長 「理顕本」に対する言葉だね。「御義口伝」にある。


須田 はい。「随喜功徳品(第十八章)」の「随喜」について「随とは事理に随順するを云う
   なり(中略)事とは五百塵点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に従うなり所詮寿
   量品の内証に随順するを随とは云うなり」(御書全P761)とあります。


遠藤 「法師功徳品(第十九章)」の「御義口伝」にも「寿量品の事理の顕本」(御書全P763)
   と仰せです。


名誉会長 事理の顕本にさいては、古来、天台宗等でも、いろいろな議論があるが、端的に
     言うと、どうなるのだろうか。


斉藤 はい。一般に「事」とは、現象として現れたものであり、「理」とはその現象の奥に
   あって目に見えない理法とか理体を指します。今の場合、「事顕本」とは、寿量品の
   説法そのものです。「五百塵点の事顕本」とある通りです。これに対し、「理顕本」
   とは、文上には、はっきりと説かれていないけれども、「事顕本」が内々に示して
   いる「久遠元初の自受用身如来の顕本」を指すと言ってよいと思います。


名誉会長 結論的には、そう言えるでしょう。「分別功徳品(第十七章)」の「御義口伝」に
     (一念信解の)信解について、こうあった。「信の一字は寿量品の理顕本を信ず
     るなり解とは事顕本を解するなり」(御書全P760)云々と。


     理顕本は、はっきり説かれていないから「信ずる」しかない。
    それは、とりもなおさず事顕本の本義を「解した」ことになるのです。


須田 寿量品の説法(事顕本)を聞いて、人々は何を悟ったのか。それは「理顕本」だという 
   ことですね。


名誉会長 「顕本」などというと難しく感じるが、「自分の本領を発揮する」ということで
     す。日本の時代劇で言えば「水戸校門」です(笑)最後に正体を顕すでしょう。
     あれは一種の顕本と言ってよい(笑)


              (法華経の智慧 第五巻 「事顕本」と「理顕本」より)

山田さんへ

【日精上人は日寛上人の直接の師匠なんですね】


私が参考にさせてもらっている書籍には、「第十七世日精の説法を聞いて感銘を受け出家を決意」とありましたが、日精が師匠との文言はなく「自ら髻を切って常在寺に行き、第二十四世日永を師匠として得度、日永のもとで修業に励んだ」とありましたが・・・


【日寛の師である日永は、元禄五年、最後の要法寺出身法主である日啓の後を受けて大石寺第二十四世法主に就任すると本堂や諸伽藍の修理に努め、明本の一切経を整えるなど宗学の興隆を目指した。正徳元年にはかつて日目が興した蓮蔵坊を再建して学頭寮とし、日寛を学頭に任命して御書の講義にあたらせた(「続家中抄」「富士宗学要集第五巻 P275」)そこには要法寺流の影響を一掃して富士門流本来の教義を明確にしようとする意図をうかがうことができる】


あと、以下の堀日亨上人の見解についてもよろしくお願いします。


【精師の伽藍復興に生気を盛んならしめたるも、反面、化儀化法の一斑を攪乱せられ、二十二世俊師に至りてこれらの革正は着々と企てられ、二十四世永師に至りてその効大いに顕るるに至れり】(『富士宗学要集』第八巻 P256)