【時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事】
(日興遺誡置文)
【予が老耄して念佛など申さば相構えて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり】
(富士宗学要第第十一巻より 日興上人が言われたと伝えられる言葉)
‘’貫首(法主)であっても仏法に違背して己義をかまえたならこれを用いてはいけない‘’
‘’私が老いて念仏などを唱えたら必ず諫めなさい、それも出来なければ私(日興)を捨てなさい
「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)、「人師」ではなくあくまでも「法」を基準とする日興上人の厳格な姿勢がうかがわれる。たとえ貫首(法主)であっても謗法、仏法に背く行為があれば諫めなさい、と仰せである。
宗門で「法主の絶対化」が強調された理由は、稚児貫首(幼い法主)や、前記事で取り上げた複雑な経緯で法主になった日舜などへの宗内の批判をかわすためであった。相承さえ受ければたとえ「造仏読誦」しようが、信者の供養で豪遊しようがシアトルで何をしようが「法主」であるという理由だけで無批判にありがたがるのは、日興上人の御遺誡に違背している。