極悪と戦えば極善となる

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法主絶対論に毒された人たち

【時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事】
                            (日興遺誡置文)


【予が老耄して念佛など申さば相構えて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり】
          (富士宗学要第第十一巻より 日興上人が言われたと伝えられる言葉)



‘’貫首(法主)であっても仏法に違背して己義をかまえたならこれを用いてはいけない‘’


‘’私が老いて念仏などを唱えたら必ず諫めなさい、それも出来なければ私(日興)を捨てなさい



「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)、「人師」ではなくあくまでも「法」を基準とする日興上人の厳格な姿勢がうかがわれる。たとえ貫首(法主)であっても謗法、仏法に背く行為があれば諫めなさい、と仰せである。




宗門で「法主の絶対化」が強調された理由は、稚児貫首(幼い法主)や、前記事で取り上げた複雑な経緯で法主になった日舜などへの宗内の批判をかわすためであった。相承さえ受ければたとえ「造仏読誦」しようが、信者の供養で豪遊しようがシアトルで何をしようが「法主」であるという理由だけで無批判にありがたがるのは、日興上人の御遺誡に違背している。

貫首が大石寺を捨てて廃寺の危機に

大石寺十七世貫首・日精は大檀那の敬大院と仲違いし、大石寺を捨てて江戸・下谷の常在寺に退去した。その後、大石寺は貫首不在のまま三年の月日が流れた。


日精から付属を受けた十九世・日舜(十八世日瑛は早々に死去)の伝記には、


【精師(日精)と大檀那(敬大院)が仲違いして、精師が富士を退去して江戸・常在寺に移住してしまった。大石寺は住職不在となり幕府の朱印改めを受けれないので、廃絶の危機に陥ったので、敬大院によって選ばれ、大石寺に貫首として入山した。その後、精師と敬大院が和解したため、精師から相承を受けて法を継いだ】(富士宗学要集第五巻)


以下は河合一氏著 「暗黒の富士宗門史」より一部抜粋


『この記述と富士年表を照合してみると、寛永十五年から三年間も法主がいなかったのです。また、日舜法主は寛永十八年に大石寺に入ってから、正保二年までの約四年間、付属を受けないで法主の座に座っていた借りの法主だったのです。つまり相承など受けないでも法主が務まった、ということになります』


『富士門流を邪義によって濁らせた上、個人の感情で法主の座を放棄し、平気で大石寺を捨てて廃絶の危機を招くという大謗法で無責任な法主や、付属のない形式的な法主など、信心のうえからはとても考えられないような破法の法主や失格法主が宗門には何人も存在していたのです』

貫首の「造仏読誦」は許されるのか

大石寺十七世貫首日精の時代、敬台院により二天文や総門、御影堂などが建立寄進され末寺も増加したために、形の上では宗門は繁栄したように見えていた。しかし、堀日亨は「富士宗学要集」第九巻P69に以下のように述べている。


【日精に至りては江戸に地盤を居えて末寺を増設し、教勢を拡張するに乗じて、遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり】


現代語訳


要法寺出身の日精は、江戸に地盤をかまえて末寺を増設し、教勢を拡張するに乗じて、ついに造仏読誦(釈迦仏像を造立し、法華経一部二十八品の読誦をすること)を始めて、全く当時の要法寺流としてしまった


日精によって、十カ寺を超える末寺に釈迦の仏像が安置されていた。



日興上人は身延の地頭・波木井実長が日向にそそのかされて釈迦仏像を造立したことは謗法であるとして、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(美作房御返事 御書新版P2166)と身延を離山され、釈迦本仏義を唱えた五老僧のことを「師敵対」と断じ強く破折されている。


日精が大石寺の貫首だったということだけで、『造仏読誦』が許されるというならば、
日興上人の【時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之れを用う可からず事】
という御遺誡に完全に違背している。