極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

見近に潜んでいるかもしれない異常人格者Ⅰ

このブログでは「山崎正友」のことを取り上げて記事にしているが、彼は「サイコパス」なのではないかと指摘されている。以下、山崎に当てはまっているもの


・口達者で皮相的 表面的な魅力
・自己中心的で傲慢
・良心の呵責や罪悪感の欠如
・無神経、共感能力の欠如
・狡猾さ、正直さの欠如、病的に嘘をついて人を騙すこと
・情緒の深みや感情の欠如
・衝動的
・短気、行動をコントロールすることの欠如
・退屈しやすさ、フラストレーションの耐性の低さ
・責任感の欠如
・幼いころの問題行動
・成人してからの反社会的行動
・寄生虫的な行動様式
・乱脈的な性関係 


これらの要素は、一つくらい誰にでもあるのかもしれないが、彼の場合、かなりの高得点でサイコパスの可能性が高い。サイコパスは一見、チャーミングで口達者、表面的な魅力があるので性質が悪い。


山崎は生前、甘言を用いて、多くの女性を誑し込んだり、金を貢がせたりしている。
彼は、どうしてこんなに女性を篭絡させることができたのか。
サイコパスは、愛情が細やかな人間の母性本能をくすぐるのがうまいという。幼少のころから「他人につくしましょう」と教えられてきた、学会二世、三世、四世の皆さん、男女問わず、このような人間にひっかからないようご注意を!
                                                                     (参考文献・中田光彦著「サイコパスの犯罪」)

嫉妬で身を滅ぼした大進房

大進房は、日興上人より先輩であったが、後輩の若く優れた指導者であった日興上人に嫉妬し、結局、滝泉寺院代行智の側につき、熱原の農民信徒へ弾圧をするほうへ寝返ってしまったようだ。御書全集の「弟子檀那列伝」(堀日亨監修)には、大進房について以下のようにある。


【興師(日興上人)より先輩の大進房は俗気の強い人で自分の活躍の場面がないことにより自負心を傷つけられたのであろう、弘安二年熱原法難の際には遂に叛逆して滝泉寺院代行智の側に立ち、長崎次郎兵衛等と共に乗馬で暴徒を指揮し法華の信者を迫害したが、此の時誤って落馬しそれが原因で死去した。大聖人はこれを【法華の厳罰】と仰せられている】



【嫉妬】は、わが身を破壊するのみならず、人間関係も壊れてしまう。
嫉妬により、まっとうな判断力を失った大進房は、自己を正当化し、「相手が悪い」と、自分の心を見つめようとせず、自己破壊的な行為でわが身を滅ぼしてしまったのだろう。


【嫉妬】は、人類が断ち切っていかなければならない【一凶】なのかもしれない。



たえず自分自身の心を見つめて、「自己の一凶」と向き合い、
「自他共の悪」と戦っていかないと、とたんに悪の生命に染まってしまう。
外なる悪と戦うことは、同時に内なる悪との壮絶な戦いなのである。

魔の狙いは信心を破壊させること

広宣流布の途上に、障魔が競い起こることは、よく知っていた。事実、多くの会員が、信心を反対され、悪口を言われてきた。しかし、幹部として皆を指導していた者が、不正な問題を起こし、しかも、学会を非難するという事態に直面したのは初めてであった。


動揺した会員も少なくなかった。学会本部から派遣された幹部が、指導、激励にあたった時にも、しばしば、こんな質問がでた。


「信心が強盛で、立派な人だから、幹部になったんでしょう。それが、どうしてこんな問題を起こすのですか。誰を信じて信心をしていけばいいのですか」


そう考えるのも無理からぬことであるが、御聖訓に照らしてみれば、不思議なことは何もなかった。御書には、この世界は第六天の魔王の所領であり、魔王は、広宣流布が進み、仏の軍勢にその領土を奪われることを恐れて、ありとあらゆる手を尽くし、法華経の行者を迫害することが述べられている。沼山夫婦の問題も、その一つの現れである。


「三沢抄」には、第六天の魔王が、法華経の行者を悩ませるために、自分の眷属に次のように命令したと仰せである。


【彼が弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或いはをどしてみよ】(御書全P1488)


つまり、弟子檀那の心の中に入って、仏子を惑わし、広宣流布の前進をとどめさせよというのである。それは、人びとの意表を突き、不信をいだかせるのに、極めて効果のある、魔の現れ方といえよう。


ゆえに、広宣流布が魔軍と仏の軍との戦いである限り、魔は、幹部の不祥事、退転、反逆というかたちとなって、永遠に現れ続けるに違いない。


だが、何も恐れるには足りない。魔は魔であると見破った時に、打ち破ることができるからである。要は、現象に惑わされるのではなく、‘’信心の眼‘’を開き、御書に立ち返ることだ。
一見、複雑そうに見える問題も、‘’信心の眼‘’で見るならば、すべては明瞭である。


派遣幹部は、必死になって魔の狙いは、信心の心を失わせることにあると、力説していった。           
                        (新・人間革命8巻 清流の章より)