極悪と戦えば極善となる

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悪質な印象操作

小樽問答を取り上げてまるで「学会は反社である」かのような、悪質な印象操作はやめてほしいですね。


そもそも、最初に日蓮宗の僧侶が、


「あんたら(学会員)と法論するよりも、その総本山から来る日蓮正宗の僧侶と法論する方が事がはっきりするじゃないか。いっそのこと、僧侶と僧侶で法論することにしようじゃないか。どうです、そのほうが筋道が通っている」


といっていたが、宗門僧が逃げ腰だったので、「法論はこの戸田が引き受けましょう」と創価学会が引き受けたもの。


それを受けて、日蓮宗側は、


「日蓮正宗の方はどうしたんです?創価学会と、どうこうするつもりはない、僧籍にある者同士じゃないと」


と話がもめた経緯がある。


創価学会に法論をやらせておいて、宗門は学会に難癖つける資格ないね。
かりにあの時、日蓮正宗の僧と身延の僧が法論していたら?身延に勝てたんでしょうかね。

信念を貫き牢獄で殉教した竹内八右衛門

明和七年(1770年)末、前田藩は、また領内での富士大石寺の信仰を禁止する法令を出し、信徒の中心者と見られた西田丈右衛門、竹内八右衛門ほか、七、八人が閉門(門を閉じて出入りできない刑)などの実刑にあっています。その多くは、陪臣(前田家の家臣の家来)
か足軽の身分の人たちでした。



三年後に閉門が許されましたが、その間に、三十年もの間に弘教に励み、二つの講を結成して多くの信徒を育てた西田丈右衛門が病死しています。



さらに、天明六年(1786年)三月には、竹内八右衛門(足軽小頭)が再び役人に呼び出され、信仰を捨てるように迫られて拒んだため、投獄されています。不惜身命の信心を貫いた竹内八右衛門は、同年四月二十九日、老齢のため牢内で亡くなりました。その葬儀には、数百人の信徒が集まって、尊い殉難の生涯を忍んだ、と伝えられています。



池田先生は、「当時の金沢の信徒たちは、僧侶が半ば放棄してしまった『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致すべきこと』(御書全P1618)との日興上人の御遺誡をそのまま実践したのである」(1992・12・17)と話しています。


                (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)

金沢法難

加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に富士門流の信仰が弘まったのは、五代藩主・前田綱紀の代に、江戸藩邸の近くにあった常在寺で正法を聞いた藩士の中から入信したものが出て、金沢へ帰って弘教したことから始まったとされています。


寛文三年(1726年)ごろ、福原次郎左衛門らが最初に入信して弘教に励み、主に下級武士の間に入信者が続出しましたが、正式には改宗ができないため、内得信仰をするしかなかったのです。


享保十一年(1726年)に、金沢にあった日蓮宗慈雲寺の僧・了妙が、遊学して研究した結果、大石寺派に改宗して、細草談林に入ったことが問題になりました。それを契機として、前田藩内での富士門流の信仰が禁止されてしまったのです。


前田家の領内(加賀、能登、越中の三か国)に富士門流がなかったので、前田藩では「禁制の邪宗とまぎらわしく、宗門改めに不都合である」として、信仰を禁止する触れを出しています。


それは、「大石寺派は幕府から禁制されている不受不施派に紛らわしい」などと中傷した、日蓮宗身延派の僧侶からの答申が出ていたためでした。


日蓮大聖人は


【此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず】
                            (兄弟抄御書全P1087)


と教えている通りなのです。


そのため日詳法主は、翌享保十二年に、前田藩に対して領内に一末寺を建立したいと願い出ましたが、却下されています。その願書の中に「数十年来、累代の信受数千人」とあり、
当時、すでに数千人に及ぶ信徒がいたことがわかります。


しかし、幕府の寺社奉行に訴えることも出来たのに、宗門は願いでませんんでした。
その理由を、堀日亨上人は「自山(大石寺)の危険を案ずる」ためと「金沢の多数の信徒が重刑に処せられることを心配したためであろう」と指摘しています。


                   (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)