何故、山崎正友は宗門中枢に上手く取り入り、意のままに操ることができたのか。 それは、彼が宗門僧の特性を熟知していたからだった。 山崎は、前記事で述べた「正本堂の土地をめぐる告発事件」で宗門の高僧たちや細井日達管長とも直接、話す機会があった。 「坊さんは、しょせん金よ。プライドとかなんとか言っている... 続きをみる
極悪と戦えば極善となるの新着ブログ記事
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S48年6月、宗教法人大石寺の代表役員であった細井日達管長と創価学会池田会長が刑事告発された。告発したのは富士宮市議・上杉三郎、同市議会議長・内藤浩、法華講員の渡辺春雄。正本堂が建っている土地には、もともと複数の道があり、大石寺はそれを勝手に不法占拠している、というもので罪状は道路交通法違反、不動... 続きをみる
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三位房日行は、比叡山に留学し、秀才だったようで大聖人門下にあっては指導する立場にあり、今の学会でいえば大幹部にあたる。 日興上人の富士方面の弘教の補助にあたり、諸宗問答の主任を任されていたのだから、 師匠である大聖人からも、かなり期待されていた人物のように思う。 しかし、三位房は京の軟風におかされ... 続きをみる
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「最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり、 八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり、 当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」 (御義口伝 下 普賢品六箇の大事 第六此人不久当詣道場... 続きをみる
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蒙古襲来の危機が迫る中、大聖人は極楽寺良観に今までの謗法を反省し、自分に帰依するように書状を出されている。 「長老忍性速やかに嘲哢の心を翻し早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賤する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり」 「良観聖人の住処を法華経に説いて云... 続きをみる
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私は敏感な性質で、人にもの凄く神経を使う。 悩みの相談にのったりすると、必要以上に相手に共感してしまうために、話が終わると一気に疲れて寝込んでしまうこともあった。 夢に友人がでてきて苦しそうな表情をしていたので、気になって電話すると案の定、 悩みを抱えていて相談しようと思っていたと言われた。 私の... 続きをみる
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戸田先生が亡くなってから60年たった今現在も、池田先生の心のど真ん中には戸田先生という「師匠」が厳然と存在している。 「戸田先生は、・・・と仰られた」と戸田先生の一言一言を生命に刻まれていて、戸田先生と若き日のご自分のエピソードなどをよく語ってくださっている。 「自分は一生涯、否、三世永遠に、この... 続きをみる
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今日、4月28日は立宗の日。 日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、""法華折伏 破権門理""の旗をかかげ、三類の強敵との闘争を開始された。 そして、「日蓮と同じく」P903 「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ」p1589 と弟子たちにも自分と同じく強敵の科、魔を駆り出して""師子王... 続きをみる
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4月21日付の聖教に目を通すと「日本の高校生の自己肯定感が、他の国と比べて著しく低い」とあった。(グローバルウォッチ 共生の未来へ) 自己肯定感が低くなる要因は、生まれ育った環境、宿命的なもの、様々あるだろう。 大変な病気や宿命にさらされ、落ち込んでいるとき、それでも「自分自身を信じぬいていく」の... 続きをみる
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一生成仏には、年齢、立場、性別、信心歴などは全く関係ない。 あくまでも信心の深さで成仏が決まる。 大聖人ご在世当時、僧侶であった大進房、三位房などは慢心、怨嫉、臆病のゆえに 退転し大聖人に弓を引いた。かの五老僧は、大聖人から「本弟子」と定められていたにも かかわらず、大聖人亡き後「住坊を破壊する」... 続きをみる
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""非難されているかどうか""が問題なのではない。 よきにつけ悪しきにつけ、動けば風は起こる。 何も言われないのは、何もしていないからである。 問題は""誰に非難されているか""である。 善人は悪人に非難され、悪人は善人に非難される。 この本質をきちっと見ていくことである。 日蓮大聖人は、ご自身の... 続きをみる
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昨年の参院戦のときのこと。 勇気をだして、ご近所にいったところ 「うちは○○党だから」と冷たくあしらわれてしまった。 しかし、諦めずに「諸天よ動け! 奇跡よおこれ」と強く祈っていると、その冷たくあしらった方みずから「応援します」と連絡してくれた。昨年も、今回の法戦も強力な味方になってくれた。 ... 続きをみる
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自らを信じよ 卑下するなかれ 卑下は仏法への違背だ 胸中の仏界への冒涜だからだ 2004・10・10 我がふるさとは世界より
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『されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云々、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ』 御書P1220 乙御前御消息 (妙楽大師は言っている。「必ず心の強さによって神の守りも強く働くのである」と。人の信心が強... 続きをみる
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広宣流布の苦労に、無駄はない。 全部、大福徳に変わります。全部、生かされていく。 御本尊中心の活動であれば、矛盾や行き詰まりがあるわけがない。 御本尊は「事の一念三千」の御当体です。十界の衆生が、すべて妙法に照らされて、 仏の働きをするのが、御本尊中心の世界です。 私は、ある時は「地獄界の衆... 続きをみる
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経文に照らして、御書に照らして、魔も難も起こらない正法なんてありません。 難を避けるうまい方法はないかなどと考えてはだめです。覚悟を決めることですよ。 実は、魔にも難にも大きな意味があるんです。 大聖人が『魔競はずは正法と知るべからず』といわれているように、魔が競い起こるか否かによって、その教... 続きをみる
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相変わらず、ひとつ覚えのように日蓮正宗の連中は「学会は弘安2年の大御本尊を受持の対象からはずした」と、わめいているが、そもそも戒壇の意義は『防非止悪』(自らが非法・悪法をとどめる信心を誓い、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める) 自らが非法・悪法をとどめてこそ、『事の戒法』である。大聖人は有... 続きをみる
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仏道修行は「してやって」いるのではなくて、「させていただいている」のである。 「してやっている」と思うこと自体、仏法者として謙虚な心がまったくない。 要するに「自分の一生成仏のため、人間革命のため」という原点を忘れているから、 「あの人が悪い、この人が悪い、幹部が悪い。自分はその被害者だ」と思う... 続きをみる
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産経ニュースより 2016・8・25 女性に抱きつく 容疑の僧侶逮捕 静岡 路上で女性に抱きつき、けがを負わせたとして、沼津署は23日、強制わいせつ致傷の疑いで北海道留萌市住之江町の僧侶、西村正雅容疑者(45)を逮捕した。西村容疑者は「いたずら目的だった」と容疑を認めている。 逮捕容疑は、23日午... 続きをみる
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牧口先生も「悪人は多くの善人の生活を脅かす」と記された。 悪人は善人の生活を妬み、悪口雑言する。そして、善人があたかも悪人であるかのように巧妙にしたてあげる。牧口先生は、そうした悪人と戦われた。そして、戸田先生は、先師・牧口先生の正義の仇討ちのために立ち上がった。 私は、戸田先生の正義の仇討ちのた... 続きをみる
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苦水重徳(くみず しげのり)氏 (元公明党 岡山市議会議員) の証言 (山崎が司法修生時代のエピソード) 当時、苦水は男子部の中心者で、 京都から帰ったばかりという正友を印象深く記憶している。 「彼は学生部の班長として帰ってきましてね。よれよれの背広を着ていたと思います。いかにも病気あがりの顔で痩... 続きをみる
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7月27日、28日付けの聖教新聞 新人間革命 雄飛の章 三十七、三十八に山崎正友(小説名は山脇友政)のことが載っていたので、ここで触れていきたいと思う。 もう故人であるので、知らない人もいるかもしれないが、この山崎正友、元創価学会の顧問弁護士という立場にありながら、その法的知識を悪用し、非道の限り... 続きをみる
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《吹奏楽行進曲》アフリカン・シンフォニー(行進曲ヴァージョン) 以下、第26回本部幹部会の席上(2017年7月8日)、上映された池田先生のスピーチ また、戸田先生は言われた。 「広宣流布は、思想戦であり、言論戦だ。書きに書かねばならないし、しゃべりにしゃべりまくらなくてはならない作業であり、大運動... 続きをみる
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慈悲魔(じひま)とは、人間の慈悲心、人情につけいる『魔』。 慈悲魔にたぼらかされると、『かわいそう』という心が邪魔をして相手のためにも自分のためにもならないことをしてしまい、悪を放置させてしまう。人がいい学会員さんは""要注意""の魔だ。 首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に説かれるこの魔、『衆生の... 続きをみる
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東京都議選大勝利の翌朝、お祝いにかけつけてくれました(^◇^) おめでとうにゃん💖 お腹をみせてゴロゴロ カワ(・∀・)イイ!!です ちょっと目つきが鋭いですね(#^^#) シマ😾も「悪は許さないにゃん!」と言っています(笑)
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立正安国論の本文に入る前、宗門問題のことに触れ、 ""日顕のような師匠に値しないような人間は御書を語る資格はなく、 御書の通りに現実に難にあい、獄に入り、広宣流布を進めた池田先生こそ御書を「身で」読んだ人なので、「師匠の心」と「我が心」を合致させないと、御書を正しく拝したことにならない""と語った... 続きをみる
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日顕の正体-戸田第二代会長の言葉 戸田先生の慧眼は、現在の宗門の姿を見抜かれていたようである。 『大聖人様の御時代に、あるいは良観とか あるいは法然の弟子とかそういう者(の弟子などになる連中)は、一体どういう奴かというと、昔、仏法をくさした、その外道の者が生まれてきて仏法をやってですね、そうして今... 続きをみる
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グルーブ学習会において「立正安国論」を4回にわたって講義させていただいた。 題目をあげ、御書にふれていく中で、日蓮仏法の究極中の究極の修行は「謗法呵責」であることを学んだ。 私は、もともと事なかれ主義で議論をすることはあまり得意ではない。 しかし、立正安国論を学ぶうち、有名な以下の一節がずっと私の... 続きをみる